αルート二話シーンプロット

地上が一つの地獄なのだとして、楽園への径(みち)は、無何有郷の在処は何処か。
――それは此処だ、と謳う声がある。
――此処に還れ、と宣う声がある。
血は内にも流れる。捕食の在り方は一つだけではなく、生存の在り方もまた今生きられている限りではない。
――返れ、還れ、孵れ。
声は魅惑するように告げる。慈母のような微笑みと共に。
此処こそが子供らの戻るべき場所であると。永遠に住まうべき場所がここにあると。
領域は拡大する。世界を覆わんと版図を拡大する。
――お還り、私の胎(なか)へ。

シーン1 電子制御

とっ、とっ、とっ、とっ。
どん、どん、どん、どん。
とっ、とっ、とっ、とっ。
どん、どん、どん、どん。
リズムが響いている。室内全域に。身を震わせて、少年の肉と骨と心臓に。
そして空間で脈動している。インターネット、広大な電子の海の直中で。
リズム。
電気信号の行き来を地として、己の中で精製されるもの。
自閉したもの。一方で外へと響き、世界に影響を与えるもの。
自分の望むままに、自分の謀った通りに世界を転がし、台無しにし、
労せずして組み上げたドミノを眺めるようなテンポと快楽とを、貪り愉しむもの。
光と音の洪水――それでも当人にとっては法則性を持った代物――連鎖の中に、その獣はいた。
“電子制御”のコードを持つ獣。その名の通り、快楽の海をかき分け、
幾重の罠と甘露を制御し、落とし込んで食らう――もって狩猟を膳立て(メイク)するもの。
モニターの瞬きに照り返す大縁のグラス、キャップに付けられたとりどりのバッジ。
発育不良、手足だけが長い細身の長身。
丸めた背に余るオーバーサイズのプリントシャツ、腰巻きの繋ぎ。
嗜好に合わせて特注させた大椅子に両立て膝の姿勢、
指揮棒を振るうような仕草で、直結した専用インターフェースから機器にコマンドを叩き込む。
画面に表示されるのは無数の情報の流れ。脳裏で並行する電子的処理を視覚的な観点から確認。
状況――その同時多発的、高速、或いは意図して低速の、リズミカルな情報拡散。そして隠蔽。
「ねえ、知ってる?最近ネットで流れてる噂――」
「聞いた聞いた、あの何か怪しいキーワードで行けるっていう場所のことでしょ?」
「私それ見たけど、キーワードも場所も分かんなかった」
「うちキーワードだけ見たよ、TLで一瞬流れてすぐ消えちゃったけど」
「え、なんだったの?教えて教えて――」
類似した凡々、極低速の会話のウィルスのような拡散。
悦楽の部類、ただし遅すぎて退屈。傍らでつまみ程度に食い散らかしながら、
本命に向けて贈るべきメッセージの組み立て進捗を確認する――順調。
今回自分は蚊帳の外だが、ベタベタやり取りをさせられながら仕事をするのは全くもって好みではない。
派手に暴れられはしないが、そこまで嫌いというわけでもなし。
――それに、敵と味方と両方からバレないよう糸を引けという立ち位置のことは気に入っている。
要するにどっちのこともバカにしていいと言っているのである。これを面白がるなという方が無理がある。
「あー、美味ぇ」
禁忌の果実を囓るような思いで、綱渡りのような情報制御を続ける。
手がかりを作ること。ただしそれは登ってこられるもののみのために設けること。
それ以外の余計な雑魚は振るい落とせるよう陥穽を設けること。
守ると同時に穴を開けておくこと。騎士業の傍らで主をコケにする賄賂の口を設けておくこと。
全くもって自分好みだ。
仕上がった糸口の出来映えを見ながら、ぎし、と音を立てて安楽型に変えた椅子に身体をもたせかける。
「マッチアップねぇ、化け物と化け物の。バッカみてぇだ。現代日本のど真ん中で無修正の闘牛かよ」
だが、見物なのは間違いない。自分とて人食い、血と臓物の振り乱し合いには食欲をそそられる。
「どっちが勝つかね」
大して興味もない競技のワールドカップを見るような思いでその時を待つ。
画面が点滅し、仕掛けておいた釣り針の一つに一方(UGN)が食いついたことを知らせた。
準備は万端。番狂わせはあるや、あらざるや。
いずれにせよ、自分は高みの見物を続けるのみ。
歯を剥いて笑い、チップスとエナジードリンクを胃袋に放り込む。
その笑みは狂暴で、血臭に満ちている。その少年もまた、紛れもなく一頭の怪物だった。


シーン2 雨、熱、煙る(PC2OP)

サウナのような熱気。熱帯雨林に迷い込んだかと思うような湿度。
コンクリートを叩く大粒、都会の喧噪さえ呑み込みそうなほどの雨音。
そびえ立つビル群の窓硝子は鏡のように天気を反射している。
通り過ぎる人間は忙しげで、私のことなど誰も気にも留めない。
湧き上がる不快な感情を、火傷しそうな温度の甘さを飲み下して押し潰す。
夏、七月上旬。傘の下で信号が変わるのを待つ。
やがて青。夏期休暇手前、ざわついた空気の校舎へと入っていく。
私学、新築、豪奢。
恵まれた子供たちの集う学び舎。私立聖生学園。
「……すごいとこだな」
隣を歩く唯一の顔見知りが呑気な感想を漏らす。
「気の抜けたこと言ってんじゃないわよ。ボロ出したら蹴り飛ばすからね」
250mlのペットボトルの残りを飲み干して、昇降口付近のゴミ箱に捨てた。
ポケットに覗く定期の裏には作られて数日も経っていない学生証。
白々しく印字された自分の名前――“天野美津”。
外とは打って変わった好奇の目。
閉じられた場所に特有の注意と誤魔化しあいの空気に厭気がさしながら、連れだって職員室へ向かう。
「“家庭の事情”でやってきた転校生」、手慣れた手続き。
さっさと済ませ、さっさと事を運ぶ。
そのために、結局実質のところは同じである視線の海を通り抜けながら、
天野はおまけの一人と共に、生徒たちの慌ただしい群れの中を屹然と歩いて行った。


シーン3 人として(PC1OP)

時間は遡り、数日前。近江が天野に稽古を付けてもらっているシーン。
近江、ボコボコにやられる。変身はまだ危険が伴うので、暴走を防ぐ技能〈意志〉の能力値が育つまで封印。
基礎的な訓練を続けるが、天野は執着/○憤懣といった様子。
「いつまでこいつに付き合わなきゃいけないんですか、私」
「こいつは怪物だから強いんであって、中身はただの一般人でしょう?
 一から使い物になるまで鍛えようなんて、時間の無駄でしかないですよ」
『罪悪感なら覚えなくていいと思うよ』
それなりに付き合いの出来てきた――わかりにくいようで実はわかりやすい少女に永山が言うと、美津は眉間に強烈な皺を寄せ、緘黙した。
『彼は本当に望んでその“無駄”を引き寄せたいと思っているんだ。それは、元一般人だった僕が保証する』
「……チルドレンの私には分からないって言いたいんですか」
『そうじゃない。君は自分の力を自分のものとして扱えている――それを衝動に任せることでしか表沙汰に出来ないっていうのは、辛いことなんだよ。特に、彼のような衝動の持ち主なら、余計にね』
「……」
天野、懐旧/○憤懣で近江にロイスを取得する。


シーン4 救いの光(PC4OP)

複数人のUGNエージェントと共に、事件の調査に当たる只野。
目的は「各地で発生している失踪事件の原因を解明すること」。
共通点は「キーワード」と「場所」。
被害者は予めその二つの情報を手にした上で消えている。
バイサズ覚醒後から行方不明者の数は有意に増え続けているが、
情報収集の結果、UGNは当件に一つの関連性があると判断した。
O市を中心に勢力を拡大しつつある新興宗教集団「母の導き」の敷地内で、
失踪した少年少女らしき姿が確認されたのだ。
その内二名がUGNと関わりを持つ有力者の子であったこともあり、本件は優先処理案件に認定。
O市では失踪事件も特に多発していることから、バイサズ絡みの事件である可能性が懸念され、調査が開始された。
永山隊から派遣された只野を含むバイサズ-ノーマル混成部隊は「当たり」を引く。
「お母様、お母様、私たちを貴女の下へ還して下さい」
子供たちの唱和が人気のない寂れた郊外、草むした工場跡に響く。
果たして、それは現れた。《ディメンジョンゲート》、或いは《猫の道》。
空間をねじ曲げ条理に沿わぬ通路を開く超常の技。
現れた者の衣に「母の導き」の印を確認できる。信者であることが確定。
「待てぃっ!!」
お前が待て、という言葉を発する間もなく割って入る只野。
「少年少女よ!これは君たちの本当の望みなのか!?」
たじろぐ信者たちと向き合いながら、叫ぶように問う。
「……そうだよ」
先頭に立つ少年の答え。
「俺たちには最低の居場所しかない。死んだ方がましだと思うような居場所しか。
 この現実よりいい場所がどこかにあるなら、どこにだって行くよ」
「!」
殆ど日の沈んだ暗闇の中、突出した只野をジャームが強襲し、只野と少年達を分断する。
UGNエージェントと只野の共闘。少年達の転送が完了すると、ジャーム達は《瞬間退場》で消え去る。
「正義が救うべき子らが……」
痕跡は残らず、手がかりは目撃証言と、只野に装着、須磨経由で撮影保存されていた映像のみ。
姿を消した少年達の面影を記憶に留める只野を映して、シーンが終了する。


シーン5 潜入捜査(PC3OP)

『以上が、今回の事前調査で得られた情報だ』
「無垢な子らを騙して連れ去るとはなんたる非道!なんたる悪逆!」
再生記録を見直し、改めて憤る只野。
「本っ当に何処まで行ってもブレないわね、あんた。ある意味尊敬するわ。
 まあいいんじゃないの。その連中」まとめ買いしてオフィスの加温器に貯蔵しているぽっとレモンを飲みながら。
「望んで逃避に走ってあっちに行ったわけでしょ。自業自得。
 自分が世界で一番不幸だと思ってたんでしょ?何が起きても満足してるわよ、今頃」
「子供たちは救いを求めていた!!」
『……。』
『いずれにせよ、この件の調査は継続されることになった。
 僕たちも隊として事件を追う。そのために今回は二手に分かれる』
永山が提示した捜査方法。
・近江、天野、ファーレンが潜入捜査
・永山、只野は外部から情報を収集、入口を探す
・定時連絡を通してやり取りし、危険が生じた際は救出に向かう
『確認できている侵入経路のうち、一つを僕たちが使う。
 私立聖生学園。O市では指折りの私立高校だ』
『天野さんとファーちゃん……そして、近江くんに潜ってもらうことになる。
僕たちの力不足だ。正式所属から最初の任務で危険を強いることになって、すまないと思ってる』
『僕らも外から潜入路を探す。見つけ次第合流するよ』
『相手が領域持ちの場合、連絡には注意が必要になる。だけど……。
 可能な限り、定期的な通信を心がけてくれ』強力な精査に引っかからなければ問題なくやり取りが可能な小機機器。
『質問がなければ、手続きが終わり次第始めよう。恐らくあと数日ほどで整うはずだ』


シーン6 すぐ傍の熱(PC5OP)

「ねえ、ミヅ」
「何」
「……さっき言ってたこと、ほんとに思ってたこと?」
二人してココアを啜りながら休憩室で尋ねる。
察する天野。積み上げた時間は長くはないが、それだけ濃く、分厚い。
「あんたみたいなのは別よ。あんたは自分で生き残ろうとしてた。
 最善を尽くして生き残ったから、今の境遇を掴んだ。
 あんなよくわからない、目の前の分かりやすい嘘に騙されるような連中とは違う」
「……そうなのかな」
「そうよ」
言い切る言葉、断定調。
裏腹に、言葉尻は途切れるように。
「ミヅ」
「何」
「今回も、いきてかえろうね」
「……うん」


シーン7 聖域の開口部へ(PC2)

「もう一度経歴を確認しておくわよ。
 あんたと私は両親同士の再婚で義理の兄妹になった裕福夫婦の子供。
 天野美津と、天野有」
「結婚して一年、親夫婦は不仲。俺と天野は仲いいけど、夫婦喧嘩はきつくて、逃げたいと思ってる」
「同じ名字なんだから、名字呼びはおかしいでしょ。美津でいいわよ」
「分かった。……美津」
「(むっ)」
「って呼ぶと、険のある視線がこっちに飛んでくる気がするんだけど」
「ファー、あんたも余計な気配出さないの。今回は道具扱いなんだから」
エグザイルエフェクト《物質変化》――“天野美津のお気に入りのミニバッグ”に擬態。
小物入れとして学校にも持ち運ぶ大切な品という設定。
「ストレスへの反発で、前にいた学校では問題を起こして転校。
 両親は殆ど家に帰らない、二人揃ってここに押し込まれた。……で、いいんだよな?」
「そうよ。で、学校での目的は?」
「“母の導き”と接点を持ってる“信者”の子と接触する」
「そう。校内にいるらしいことは分かってるけど、具体的にそれが誰なのかはわかってないわ。
 第一目標はそれを探すこと。第二目標は」
「消えること。“母の導き”への潜入」
「当面はそこまでね。基本の要領は、前の時と同じよ。
 あくまで自分の好奇心の範疇で、素人仕事でいい。
 あんたの場合、要は自分の能力の範疇で全力を尽くせばそれでいいわ」
褒められてるのか、けなされてるのか。
「事実を言ってんのよ。戦う方は置いといて、諜報はズブの素人、無能なんだから」
「仰る通りです」
「じゃあ、いくわよ。あ、食事は折角だからあんたが作って。作りたてのものの方が熱量効率いいから」
「了解」
言いながら室内をぐるり、最後にキッチンを見つめる。
高級マンション、UGNの資金で購入されたセーフハウスの一つ。各個室あり、オープンキッチン。
家具も一通り揃っており、軒並み高級品だが、全体に使われた様子は薄い。
「生活の痕が薄いのも演出のうち……か」
「あ、あと。最後に大事なこと忘れてたわ」
「?」
「家の中でまで演技続ける必要はないから。私とファーにはなれなれしくしないでね。
 あとお風呂とシャワーは私たちが先、間2時間は空けてから入って」
「……了解」
なお長風呂。洗い物と掃除は実質近江の担当(全然する気がない二名/風呂待ちの間手空きの近江)。
「(……下手すると、こっちの方が疲れそう)」
でも、誰かと四六時中一緒に生活する、というのは久しぶりで。
その相手が女子二名なのは形見が狭いけれど、悪くはない、と思う近江。
割り当てられたクラスはそれぞれ別。
情報収集のwave1が始まる。


シーンEX 三人の生活1

「安い」
初回登校の前日。学校へ着ていく私服のチェックをする、ということで確認を受けた近江。
上から下までとっくり見た天野の第一声がそれである。
「予算幾らよそれ」
「えーと……」申告。
「桁が足りないわ」桁が。
「買いに出るわよ。ファー!」
「うん」どことなくお揃いの厚着。
街にくり出し、立地ゆえ電車に揺られることも僅か、デパートに容易く到達。
並ぶ店、全体的に言うまでもなく高級店舗。近江、端的に言って居心地が悪い。
「いい、この手の私学の連中は大体小さい時からいい服着て育ってきてるから、選ぶのも大概そういうものな訳。
 確認しといて良かったわ。あんたと私、兄妹のはずなのに同じ家でそんな格差あったら設定崩壊もいいとこよ」
闊歩しながら手慣れた様子で物色する天野。心なしか自慢げな雰囲気で隣をついてくるファー。
「まずは私が見繕うから、細かい調整は自分でやんなさい。
 趣味は人それぞれだから好きにすればいいけど、最低額はこっちが決めたげるわ。
 あ、それはそれとして通学服ってことは忘れずにね。あんまり羽目外すとクラスで浮くわよ」
思ったより別方向に大変だと思わされながら試着大会を済ませ、レジに向かう近江。
「(桁が違う――!)」4桁との戦いで苦労していた自分の日常が別の所で死んでいくような思い。
帰り際、食品を買っていくと宣言。常識を取り戻したい思い。が、
「(数字がおかしい……!)」
常識的な値段でものを買いたいだけなのに。
「経費なんだから気にせず買えばいいじゃない。適応力ないわね」
帰りに電車の窓越しに普通のスーパーの姿を見つけ、何となく縋る思いで景色を追った近江であった。


シーンEX 三人の生活2

ぐつぐつ煮え立つ鍋の中身。辺りにはすっかりいい匂いが充満している。
オープン式のおかげで冷房の涼しさはこちら、キッチンの方にも多少来ているが、
火の前でずっと作業をしていればそれは汗だくにもなろうというもの。
「ふぅ……」
三角巾なんて久しぶりに付けた。額の汗が気になってしまうのだから仕方ない。
「出来たよ」
リビングの方に声をかけると、
ソファーの背もたれに微妙に覗く形でこちらを見ていた小さなシルエットが慌てて引っ込み、
やがてのっそりと姿を現す。
「天野……じゃなかった、美津呼んで来て」
「……わかった」
観察していると分かってくる。ファーレンハイトはどことなく猫に似ている。
天野に対しては距離感がかなり近いけれど、自分とは一貫して距離を置いている感じがする。
ただ、一緒に住んでいるおかげか、ちょっとずつ馴染んできたような。
「(正義さんくらいかな)」
永山さんに対してはもう少し近い気がする。
ふと気がつくと、いつの間にか傍に戻ってきて皿を出し始めている。
「ん」
よそれ、とのご指示。大皿。
もう一つ分かったこと。この子は体格の割に沢山食べる。
代替食の目的もあるからだろうけれど、黙々と食べ、ご飯を楽しみにして、
次々おかわりを要求してくる様子は、何というか……。
「(ペット……に近いような……)」
なお天野は飲み物で補うタイプ。
「はい」
大盛りにして渡す。
「皆で食べよう」と言ってあり、そこは作る者特権で通してあるので、
ソファーに腰掛け黙然と待つファー。
「……」そわ
そわそわそわ。
やがて左右にゆらゆらと動いて落ち着かなげにしだす。
「(やっぱりこう……)」
ペットだな……と思う近江であった。


シーンEX 三人の生活3

「……。」
遅い。
端末を閉じると、近江は落ち着かない思いで椅子に腰掛け、浴室の方を見つめた。
かれこれ一時間以上は経っている。
長風呂という概念があるのは知っているけれど、それにしてもこんなに長いものだろうか。
途中、大丈夫か、と一度声をかけたけれど、
「まだー。入ってくるんじゃないわよー」
との呑気な返事。
その様子からして、いつも通りのことなのだろうとは予想が着いた。
が、それはそれとして、のぼせたり具合が悪くなったりということはしないのだろうか?
というか、それだけの長い時間いて落ち着かなくなったり退屈になったりしないのだろうか?
様々な常識的思考と心配が相乗し、近江の心中に不安を蟠らせる。
様子を確認できないことでそれが層倍する。
バイサズ、そしてオーヴァードである限り、衝動に襲われることも、前触れなくジャームに落ちる可能性もありうる。
やっぱりもう一度状態を確かめておいた方が、と浴室に近づいた時、二重扉の向こうから声が聞こえた。
「ちょっと!ファーやめてよ!」
「大丈夫、すぐにへいきになる」
「それはさすがに入んないってば……!」
がたがた言う音と共に揉める様な声。声音、深刻。
やがてばったん、と人が倒れるような音。
「天野――!?」
心配が的中したか、との思いで戸を開ける。
と、同時。
ばきっ。
浴室のドアが開くときの特有の音と共に、
泡だらけになったファーがタオルを取ろうと手を伸ばしているところに正面相対。
「……」
「……」
一瞬の間。
無事――後ろの方に濡れ髪を巻いた天野の姿も、湯気だらけの浴室の中できっちりと見え、
「ご、ごめんっ!?」
変身時もこれほどの早さで動いたことなし、と思うほどの勢いで戸を閉める。
「……。へんたい」
後ろ背にファーからの一言。
「まあ、言ってない私も悪かったわ。1:99くらいでそっちがペナルティだけど」
課される労働。ほぼ家事全部(ただし元々大体全部やってた)。
「ファーと私は身体繋いで動くことがよくあるから。普段から部分的なコネクトをやって調整かけたりすんのよ」
さっきのはそのやり取りだったわけ、と乾かしたての髪を結びながら天野。
「(平気、じゃなくて兵器、の方か……)」
「へんたい」
手軽に近江を弄れる言葉が見つかりどことなく嬉しそうなファー。
近江、二人に目を向けられずに頭を垂れる。
食欲的な見定めよりもしばらく羞恥心が勝つことになった。
それが唯一、良かった点と言えば良かった点だった。……悪いことの方が圧倒的に多かったが。


情報収集

・「消える生徒」の噂について
スイッチを入れる。意識を制御する。
感情を全て自分の掌の上に置く。必要に従ってそれを変化させる。
灯火の温度を変化させるように。
必要な笑顔、必要な愛想、必要な影、必要な弱み、必要な完全性、必要な不完全性。
全て自分の理性、判断から導き出される“必要”に殉じさせる。
簡単な作業だ。少なくとも戦闘中に、自分と仲間の命を背負って同じことをやるのと比べれば。
表面上は明るい性格、しかしその裏に深いストレスの影。
演じる事は容易い。どうせ相手もすぐに自分のことを忘れる。
例えどれだけ表面上の感情を寄せたとしても、一時のこと。
“その枠”に当てはまる誰かがいなかったから、自分がそこに入り込んだだけ。
もし仮に、そこに寄せた感情が本当のものだったとしても、事件が解決すれば自分は永遠にいなくなる。
割り切ってしまえば話は早い。特に学校という閉域にいる同年代の人間は、いとも容易く自分を信用する。
……一旦クラスに馴染んでしまえば、その話を聞き出すまではすぐだった。
「噂も何も」と彼女は言った。
「本当のことよ。ニュースにならないのが不思議なくらい」
「どこの学年でも一人は消えてる。
 先生たちは今も行方を捜してるけど、見つかった人は一人もいない」
「親は騒ぎ立てないのかって、不思議に思う?」
「“子供が失踪した、家庭環境の問題かもしれない”。
 そんなことになって信用を落とすくらいなら、
 黙って事件が解決するのを待つような人たちが親だから、皆いなくなるのよ。
 ……私だって……」
精神の熱を操作する。その少女に対する心からの同情――そして共感の念を呼び寄せる。
詳しい情報を引き出す――同時に極力親しくなる。失踪と関連を持ちそうなターゲットと。
「ありがとう、天野さん」
泣きそうになりながら感謝の言葉を口にする少女。
「私も一緒だから」
――どの口がそれを言うのか。
湧き上がる感情を容易く抑え込んで、傷ついた者同士、
痛みを共有する相手に向けた笑みを浮かべる。

・聖生学園の“信者”について
「彼女」とSNSで繋がり合い、やり取りをし始める。
頻繁なやり取り。親しげな付き合い。
本当の友達づきあいのように思えてくるくらいに。
相手からの返事に、飾る必要もない場所で小さく笑えるようになったら成功している証拠。
やがて見つかるもの――鍵のかかった“グループ”。
その一人が友人。家庭環境に問題があると愚痴をこぼしていた。
他にも様々な問題を抱える少年少女たち。
マイナスの感情――傷のなめ合いを求める者たちの仮初めの憩いの場。
殆ど確信犯――ダイレクトメールで設定を吐露する。
『出来るなら今すぐ兄と二人で逃げたい』。
返信。『どうにか出来るかもしれない人がいる』。
二年一組“好井信治”。教えられた生徒の名前。
『あの人も兄妹で、二人していなくなったって言われてるけど、
 信治先輩の方は今もネットで繋がってるの』
『天野さんがどうしても逃げたいなら、私、繋げられる』
ビンゴ――そして。
大切な秘密だろうことを、自分に話してくれている。
――全てが嘘で形作られた“天野美津”に。
ほんの僅かの逡巡。そして送信。
『ありがとう』『おねがい』たったの九文字。
既読がつくまでの時間がひどく長く感じた。
そんな自分に厭気がさして、喉が焼けるような熱い代替食を一気に飲み干した。
トリガーシーンEX「感情の価値」が解放。


シーンEX 感情の価値(PC1)

「普段通りに振る舞え」と、天野はそう言った。
普段通り――前の学校にいた時のように。
“匂い”を感じながら笑う自分。目的を持って人と関わる自分。
「……近江くん?」
「……あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「変わってるね、近江くんって」
自分の一挙手一投足、空々しく感じる。それでも、周りは自分を普通の人として扱ってくれる。
「顔に出てるわよ、あんた」
当然、天野以外。
「これから行くところで同じ真似したら即バレるわよ。
 表情筋鍛えなさい」
そういう天野はまるで別人のように振る舞う。
笑顔。笑顔。笑顔。曇りのない、でも屈託を隠している、設定通りの。
「前のところじゃ取り繕う必要がなかったから素で行っただけ。
 必要があれば、幾らでも性格ぐらい取り替えるわよ」
天野の断言。
「じゃ、また帰りにね。今日はポタージュがいいわ」
“普段通り”の姿で歩き去り、すぐさま仮面を付け直すその手際にはそつがない。
でも。
“潜入経路の当たりがついた”
と口にした天野の表情は、何だか。
「近々会うことになるわ。
 ボロを出さないよう、イメージトレーニングやっときなさい。いい?」
「なあ、天野」
「何よ」
「……」
言いかけて、口ごもる。
どう問えばいいのか分からなかった。
どういう風に尋ねれば、思っていることを伝えられるのか。
「……ごめん、何でもない」
結局何も言えなくて、会話を終え、食器を片付ける。
「……だから、顔に出てんのよ」
小さく呟いた言葉は、近江には聞こえなかった。


シーン8 責務と現実と正義と

「ふむ、“お母様”……。確かに少年少女はその言葉を口にしていた」
『団体としても“母”は重要な概念だ。特に団体の中核がジャームである場合、そこには多分に衝動由来の何かが込められている可能性がある。』
「そこに連中の“正義”が賭けられているということか?」
『そう言える。だが、厄介なのは、彼ら……「母の導き」が極めて秘教的な組織形態を持っているということだ』
『「母の導き」は広報活動を、信者自らの手による勧誘にどうやら限っている』
「少年少女たちの間でまことしやかに噂される……すなわち、誑かされた少年少女たちが自ら被害を増やしていると?」
『うん、そういうことになる。……このことをどう思う?』
「無論許せん!これは巨悪だ。根本から正義の炎で燃やし尽くさねばならない!」
『……そうだね。君はいつでも果断だし、僕たちのすべきことは間違いなくそれだ。
 いつでも、僕たちは出来ることをするところから始める必要がある。……須磨さん?』
《はいはい!谷さんから伝手もらって連絡が済んでます。永山サンたちの準備が出来たら、いつでもアポ入れて会えるようになってますよ!》
『助かるよ』
立体投影式モニターを操作してO市の複数ポイントと関連情報のアイコンを表示。
『僕らの仕事は、内部に潜った天野さんたちでは収集できない、「母の導き」の痕跡を追うことだ。
 彼らは単純な信者拡大を目指していない。明らかに“迎え入れるべき者”を選定し、公への無闇な露出を避けている』
表示される事前調査結果。谷修成――レネゲイド関係事件の調査を行う警察内部独立捜査課刑事。
彼率いる“R担”、その地道で粘り強い調査の成果――見えて来る高度な情報操作の手際。
噂話の“調律”。過度に広がりすぎないよう、不必要な人間の下には流れ着かないよう、
秘密に対する好奇心、救いを求める精神、機器操作能力、それらの足し合わせでギリギリ手が届く位置に配置された、断片的情報の数々。
失踪者――一様に少ないロイス、失踪が問題化して警察に持ち込まれても、情報がメディアへと流れないよう、
所轄の何処かの部署で“処理が滞留している”。
『各地に被害がばらけていて、今回の件を契機にそれらを強引に結びつけようとしなければ、誰も気がつかなかった。
 どういう人間を選び、何のために集めているのか。その背後にある思想は何なのか。その思想はなぜ生まれたのか』
『二人で分担して調査を進めよう。只野くんは、勧誘を逃れた人たちから話を聞いてくれ。
 信者が何を語ったか、何故その人たちを選ぼうとしたのか、そこから全体像を組み上げる』
「了解した!連中の誑かしの手管を探るのだな」
『“R担”の刑事さんが同行してくれるから、一緒に行動してくれ。
 僕は失踪者についての情報を詳しく当たってみる。情報の集約と連絡は須磨さんを経由して行おう』
《お任せです!回線開けっぱにしときますから、いつでもどうぞ!》
『それじゃあ、始めよう。最終目的は、「母の導き」の危険性を明るみに出し、踏み込むために必要な情報を揃えること。始めよう』
「おう!待っていろ、少年よ、少女よ!!」

・「母の導き」について
「聞かせてくれ。君がいかにして悪の手から逃れ、正義の庇護を求めるに至ったのかを」
「は、はい……?」
独特の剣幕に引っ張られつつ、記憶を掘り返して当時の事を語る被害者たち。
おおよそ、以下のことが判明する。
・宗教というよりは“人物との接触”というニュアンスで勧誘が行われたこと
・入信というよりは“移住”、引っ越しのニュアンスが強かったこと
・快適な「場所」がある、こことは違う環境がある、と語ったこと
・相手が既存のロイスを厭わなかったようだったこと
・「母の導き」が掲げるのは理想や思想ではなく、何らかの具体的な恩恵である
・それは「母」――教祖、が提供するものであること
「宗教の勧誘だとは思いませんでした。どちらかというと、シェアハウスに誘われるような感覚でした」
「おかしいと思ったのは、彼の他人への扱いが……何というか……」
「僕が両親の世話で首が回らないのを知っていたのに、彼は単身での移住を勧めてきたんです」
「二人のことを話すと、こう言ったんです。“そのこともすぐに問題じゃなくなるから”と」
「それで、これは何かおかしいのではないかと思って、僕は無理だと答えると、それから彼は消えてしまったんです」
「ふむ。それで警察に訴えたが、正義は成果を上げられなかった、と」
「対応中の一点張りでした。……彼は僕の数少ない気の合う友人でした。彼が騙されているなら、助け出してほしい」
「任せておけ!この正義が必ず悪の魔の手から救い出してみせよう!」
《現世救済、思想じゃなくて人への接触?即物的過ぎて、薬物流通のやり口に似てますねこれ》
「母、なる人物が諸悪の根源であるのだろう?ならば、それを叩けばいいだけの話だ!」
《まあ、確かにそうっちゃそうですねえ……そっちを洗うって方向で良さそうです、永山サンから返事来ました》
「うむ!敵を知り、その悪を白日の下に晒す!次の関係者の下へ急ぐぞ!」
《あ、ちょっと!ああもう……。すいません刑事サン、合流地点今出しますんで、引き続きお願いします……》

・教祖「母」について
正義的バーニングハードスケジュールの結果、以下のようなことが分かる。
・慈愛を動機に行動している
・信者を我が子と呼んでいる
・金銭の授受といったものは一切ない
・寄進は自主的なものに限られる。それさえも不要な用立てのようである
《んー、少なくともありがちなセルによる略取の類じゃなさそうなのだけは確定ですか……嗜好の偏ったバイサズの仕業ですかね?》
のべつまくなしに人を攫う訳でもなければ、金銭を絞りとる訳でもない。
「悪は往々にして正義を標榜する。あのように追い詰められた少年少女を日常から引き離すような輩が、真の正義であるとは思えんな」
《そこはあたしもそう思います。慈愛……動機が何かは、中に潜った美津たちからの情報を待つしかないかな》
《次が接触だって言ってたけど……》
一抹の不安は隠せない。ここからは密な通信は期待出来なくなる。
連絡は専用端末以外では行っていない。
潜入開始前、やり取りした時の最後の言葉は「大丈夫」「今度も帰ってくる」。
無事に、とは付けない。それが彼女の癖だった。
もう随分前になるその一文の日付に積み重なるようなざわつきの感覚を覚えた。

・O市行方不明者の共通点について
『……』
単身者用のぼろぼろのアパート、取り壊しも近いと噂されているそこを出て沈黙。
大凡事前調査の通り。新たに以下のことが分かる。
・失踪者は皆、殆ど何も持ち出さなかった。彼らにとっては唯一の窓だろう通信端末すら持たずにいなくなった例もある
・端末を含む残留物の調査結果。「ここではない場所」「痛みのない場所」を求めていた
・彼らに共通するのは“放棄”の痕跡である。全てをなげうつようにしていなくなった
失踪の理由は何も家庭内不和だけではない。中には順風満帆そのものの人生を歩みながらふっといなくなった者もいる。
明らかな絶望の淵から逃げ出したものもいれば、明らかな幸福の中から去ったものもいる。
『(ましな場所があるなら……か)』
熱風と雲の向こうでぎらつく日差し、陽炎の揺れる雑踏の数歩手前、裏路地。
ビルの谷間から空を見上げると、騒音が妙に耳に付く。
光も、暑さも、音も、匂いも、全てが自分にとって他者。
与えられたものに馴染めない。自分が選びたかったものは自分の掌にはない。
ただ重荷の感覚だけが時間と共に積層していく。命の時間は刻一刻と経過していく。
手にしているものを捨てて、あるかどうかもわからない何処かへ向けて走り出すには、
自分の命は重く、生臭く、切実に過ぎる。
……そう思っている時、もし、
「駅のホームに飛び込むよりも、ビルの屋上から飛び降りるよりも、ずっとましな仕方で命を安置できる場所がある」、
そんな風に聞かされたら?
『須磨さん。推論プログラムにキーワードを追加して、何らかの仮説が生成されないか、証言を再検証してみてくれないかな』
『追加する言葉は、“紐帯”……いや、“臍帯”だ。この件からはどうも、血液の匂いがする』
生の心臓の鼓動。現世救済、非常な確信めいた行動。物々の不在。
模糊とした手がかりの中から何かを掴もうとするように、煙を立ち上らせる圧搾書類の筒先、橙色の火を見つめた。

・“信者”たちの行動について
情報を追加していく過程で、推論プログラムが一つの仮説を提示する。
過去事例との比較――類似可能性の高い事件、“吸血鬼”案件。
ブラム・ストーカーエフェクトによる非覚醒者の眷属化。
即座にもたらされる恩恵――事実上の従者化。自分の人生そのものを上位者に永久譲渡する。
主体性の放棄。代わりに提供される新たなアイデンティティ。
現世救済、奇妙な確信、物々放棄、親しく苦しむ者をこそ仲間に引き入れようとする姿勢。
『自分自身との親近感覚の物証化……確かに、この事件はその類のものかもしれない』
流れゆく紫煙を茫洋と見上げながら。
選抜――己の従者として従えるに相応しい人物、「救われるべき者」の品定め。
『須磨さん、天野さんの端末に連絡を飛ばしてもらってもいいかな』
今件が恐らくブラム・ストーカーに関わること、何らかの形で洗礼を受ける可能性があること。
ファーレンハイトのエグザイルエフェクトで拮抗する必要性があるかもしれないこと。
『その上で、もう一つ――「母の導き」の目的を探って欲しい、と』
「導き」。「母」はただ人々を繋ぐだけではなく、何かをしようとしている。
それが何なのか。
『……』
記録の中にあった言葉。
“そのことも、すぐに問題じゃなくなる”。
何処かで、獣の心臓が脈打つ感覚がした。


シーン9 救いの母

好井信治と接触。近江の嗅覚。肉にまつわる何かの匂いがする少年。

「君ら、最近誰かとヤった?」
「母様は余計なものの混入を嫌うんだ。君ら同士ならいいけど、他のはね。その時は洗浄を挟んでからじゃないと」
「そう。なら――」端末を操作。開くゲート。

「ようこそ、還るべき場所へ。僕たちの本当の、本来の居場所へ」

辿り着いた昏いエントランス――信治のそれより濃厚な、知らない何かの匂い。

「(けど……なんだろう、この感じ)」

知っている、という感覚。
懐かしい、という感覚。

「お待ちしていました」

乳白色のヴェール、同色に金縁の装飾、ゆったりとした作りの衣服を纏った少女。
好井信治によく似ている。
手に持つのは黒塗りの筺。
中には少女のそれと同じヴェール。

「これを」

言われるまま身につけ、手を引かれ、導かれる。
歩く内、理解する。

「(……体内)」

体の内側。粘膜、血管、細胞壁の内側を流れる体液と血液の匂い。
破損していない有機体。その内部を循環する命の直中。
胎――その通りなら、ここは或いは産道。

「(いや、違う)」

胎、転じて腹。
血の匂いは染み出してこの空間にも微かに通っている。
ここには牙がある。どこかに、内部のそれを咀嚼し消化するための器官がある。

『母様は混入を嫌うから』

嘘を吐いた者は、或いは。

「こちらです」

扉ははっきりと人工的な作りをしているのに、どうしてか内臓の匂いがする。

「お母様。新しい子を連れて参りました」

扉が開く。そして、その向こうに――。


私が“天野美津”になったのは、5歳かそこらの時だ。
元の名字は覚えていない。親戚をたらい回しにされて、最後に残った名字が天野。
美津の名前は親が付けたというけれど、その顔も声も、今では記憶の彼方だ。
一つだけ覚えているのは、炎。
家一つ丸ごとを食んで隆盛の限りを尽くす灼熱。
5歳の私が持っていた全てのものを食い殺した、朱色のけだもの。
UGNに引き取られて、訓練を受けて、チルドレンとして認定された。
温度を操ることが私の能力だと知らされた。
あの炎の中で死ななかったのは、それが私自身だったからだと。
奇妙に腑に落ちるものがあった。というより、予め分かっていたような感触があった。
だって私は、あの日――。
……どうして今、こんな事を思い出すんだろう?
そんな熱とは縁もゆかりもない場所にいるというのに。
その答えは、開いた扉の先にあった。


「――お帰りなさい」
その一言は、全てを見透かしていた。
まさしく慈母のような微笑みがそこにあった。
その口元に見覚えがあった。その細められた目に見覚えがあった。
その声に聞き覚えがあった。匂いが奥底の記憶を刺激した。

「っ」

思わず口を突いて言葉が零れそうになるのを、唇を噛んで耐えた。
ほんの一瞬間に濃縮された幻覚。
堅固に結んだはずの精神の防壁をも、容易く貫いて氾濫するような五感全てへの侵襲。
内側に食い込んだ歯が血を零す。
口内を満たしていくそれの匂いを吸い込むことで正気を維持しようとする。
通り過ぎた後も、余韻を払拭するためにしばらくの呼吸を必要とした。

「ただいま戻りました、母様」

好井信治の声が遠く聞こえる。応ずる“それ”の声だけは異様にはっきりと聞こえる。

「ありがとう、私の子」

“私の子”。

今度は“それ”の発した言葉だと聞き分けることが出来た。
先ほどの第一声は幻だ。作り出された錯覚にすぎない。
顔を上げて“それ”を見た。還る場所などではありえない“それ”の相貌を。
“それ”は穏やかに笑んでいた。そしてこちらを見つめていた。

「新たな子ら。よく、私の下へ」

厳かな声で“それ”は言った。吐き気のするような安息の匂いを伴って。


マザーは運ばれてきた小さな器に聖痕からの血を注ぐと、飲み干すよう促す。
呑み込んだそれは体に浸透すると、領域と身体を繋ぐ媒介として機能し始める。
傍らの好井信治、ヴェールの少女と、そして教団内部にいるのであろう多くの信徒の存在を知覚する。
同時に、その領域のありようも。

「改めてようこそ――いや、お帰り、二人とも。“ここ”が、母様の胎内だ」

教団の土地の殆ど全てを含む規模の広大な“領域”。
その中心――マザー・オブ・オールの眼前に、天野と近江は立っていた。


シーン10 胎内

「つっ……!」

ちくりとした刺激。自分の中に異質な何かが入ってこようとする感覚。
自分の肉が反射的にそれに攻撃を加えようとするのを、習った通りの呼吸を意識しながら抑え付ける。

「これでよし。ファーの干渉を定期的に入れてれば、あれの因子の増殖はコントロール出来るわ。
 ……もっとも、あんたの場合は別の意味で調整が必要だけど」
「増えすぎじゃなくて殺しすぎ。具合悪いの部屋まで我慢した演技は評価してあげる」

ばち、と背中を叩くと結合していた箇所が痛む。
顔をしかめながら、テーブルの上に置かれたアンプルを近江が見やる。
透明な水晶体の中に閉じ込められた一滴の朱。
ファーレンが“母の血”から摘出、隔離した因子――収集に成功した物的証拠の一つが光に透けている。

「……やっぱり、バイサズが絡んでたんだな」
「解りきってたことよ。伊達や酔狂で私たちは動いてるわけじゃない」

あてがわれた同室、二段ベッド。上に立つのが好きかと思いきや、下段を占拠した美津。
椅子にかけ、袖を通し直しながら視線を美津に移す近江。

「……天野?」
「何?」

視線を合わせない天野。ファーの内部に隠匿したメモに捜査記録を付けている。

「その、大丈夫か」
「だから、何がよ」
「……その」
「平気よ。あんたならともかく、私は慣れてるの」

淡々とペンを動かしながら、抑揚の薄い声で言う。

「ファー」

呼ぶと、ポーチからパンクポップデザインのイヤホンが伸びてくる。

「あんたも付けて。私の方は大体解ってることだけど、共有する」

装着、と同時に耳全体から脳に向けて、神経網のようなものが走る感触。
形成される共有思考。

《まず、この領域の性質の説明。言ってみれば、ここは“養育場”よ》
《養育?》
《因子を経由して、生成した養分を信者たちの中に送る。  オルクスの因子には色々な性質があるけど、あれが植え付けた因子は言ってみれば“へその緒”ね。
 情報を収集したり監視したり、相手を支配したり、
 そういう機能はないか、弱い――その気になれば生死や位置ぐらいは把握出来るかもしれないけどね》
《じゃあ、悪い作用はないってことじゃないか?》
《それ自体にはね。特に監視の目が薄いのは、私たちにとっては好都合だわ。外とのやり取りがしやすくなる》
《これからどうする?》
《打ち合わせ通り。可能な限り情報を集めて、立証が出来たら踏み込む》

情報収集項目2が開示。

「あ。あと」

接続が解除された後で、自分の脱ぎ落とした服を投げ渡しながら言う。

「背中の痕のこと、誰かに見られて聞かれたら、私にやられたって言いなさい」

それって、

「身体の関係だって仄めかすってこと。親密だと思われた方がいつも一緒にいても違和感ない理由になるでしょ」

案内役の奴も近親なら問題ないって言ってたし。とベッドに潜り込みながら。

「言ったでしょ、仕事。上っ面の情報を使い勝手のいいように弄くる。
 それは匂い付け用。あんたも慣れなさい」
「……」

背中を向け、「明かりを消して」と命令したきり沈黙した美津の服を見下ろす。
それからもう一度美津の背中を一瞥したが、やがて二段ベッドの梯子を昇って、ベッドの中で眠った。

情報収集2

“胎内”の仕組みについて
この特殊な領域は極めて広範囲を覆う。
その分精密動作性は低い。恐らく正確な人数も把握できてはいないだろう。
効果が穏当なのはどうやら間違いない。
他にどのような攻撃性を秘めているかは解らないが、牙があるとしても隠しているのは確か。
この収集は例外的にシーン10の儀式時、ファーレンのみ先んじて行うことが出来る。
失敗した場合、ここで任意のPCが情報:UGNで判定可能。
サンプルを外界に送った扱いとなる。
教義について
母の内に憩いを求め、幸福であること。
そしてその“救い”を、全ての人に広めること。
この目的のために、選ばれた者が外との窓口となり、信徒を増やしている。
自ら表に出る者、ネットを介して接点を作る者、様々。
収集項目「布教者たちについて」が出現。
布教者たちについて
全員善意で動いている、信仰の厚い信徒である。
母からの祝福を受けて、“胎内”の外に出て活動する。
第二段階の目標値をクリアすると、一つ気になる点を発見することが出来る。
母自身との齟齬。彼女自身は「広めろ」と命じてはいない。
中心にいるのは「津村」と呼ばれている特徴のない男。
布教を最初に始めたという男で、母からも深い信頼を得ている。
彼が動いているために、失踪⇒信徒の増加というラインが出来上がっている。
信徒の生活について
平穏そのもの。――というより、何もしていない。
統率や協働といった、こう言った共同体に見られる特徴が全くない。
出会う誰も、正確な信徒の人数も、規模も、把握していない。
面識のない信徒とは、出会った際に挨拶を交わす程度。それすらしない信徒もいる。
因子を分け合っている限り、ファーレンが独自行動したとしても恐らく気づかれることはないだろう。
起きて、禁則事項に立ち入らない限り望むことを行い、眠る。
希望すれば自室に籠もることも出来るし、他の信徒と交友することも出来る。
外界の道具を取り寄せて何らかの耽溺に耽ることも出来る。
日付も曜日も、時間すらも意識する必要はない。
因子で繋がれている限り、信徒には栄養が完全に供給される。
眠りたい時に眠り、起きたい時に起き、したいことをすることが出来る。
……だが、週に一度、その“時間”が意識される出来事が起きる。
“回帰”と呼ばれる儀式だ。
“母”について
ただ単に「母」「お母様」「マザー」等と呼ばれている。
この共同体の精神的支柱であり、また“養分”を与えている物理的な核でもある。
望めば、この母とも対話することが出来る。
小さな子供を集めて情操教育なども行っているようだ。
その姿は、全く“正常”なように見える。
“回帰”について
“回帰”とは、母の胎内へ還る儀式。
これを施されたものは、この世界という場所から消え去って、
よりよい場所へ辿り着くことが出来るとされる。
選ばれた者が一週に一人、この施しを受ける決まりとなっている。

シーン11 無何有郷1

トリガーシーン / 上記の情報収集項目を創作上まとめたもの


小鳥のさえずりで目が覚める。
天気は快晴で――予報では今日はどこも雨だったはず――木漏れ日がカーテン越しに差し込んでいる。
身動いだ時に美津の匂いがしてどきりとする。知らない内に他人の痕跡を抱き締めて寝ていた。
その様子を、顔上半分だけ覗かせたファーレンがじとっとした目の無表情で見つめている。

「……へんたい」
「うわっ!?」
「朝からうるさいわよ。ファーがこの部屋にいるところを誰かに見られたら困るんだから、大声上げない」
「ご、ごめん……。って、あれ、いいの?」
「人型取っていいのかってこと?多分大丈夫よ。昨日の分析と接触で相手のタイプの予測は大体付いたわ。
 あれは異物には反応するけど同質である限りは気にしないし、あまり気にも出来ない。
 それはこの建物の規模から言っても多分確実……。
 少なくともこういう狭い空間で、因子を持った個体が二つから三つに分かれても、まず把握は出来ない」

因子を宿した個体がものに触れればその痕跡も残る。追跡に役立ちもするし、追われる側になれば危険だが、
こうして緩やかな監視下で行動する分には、オルクスの性質はかえって行動を容易にする。

「もう少し様子を見てから、ファーには独自行動に移って貰うわ。
 必要な時は姿を隠せるし、表だって踏み込めない場所にも入りやすい」

どことなくどやっとした空気を漂わせてからファーレンが降りていったので、近江も続く。

「そろそろ例のシンジっていう胡散臭いのと会う時間よ。あんたも早く着替えなさい」

着替え済みの二人。

「ほら、後ろ向いててあげるから」
「やっぱりそうなるのか……」
「他にどこで着替えるのよ。別に興味もないんだから気にしないでやりなさい」

こういう時って音が気になるんだよな結構、と思いつつも着替えを終える。
信治の案内を受けて建物内を見て回る。昨日の内に打診が済んでいた。

「ここが遊戯室、ここが書斎、運動具はあっちの倉庫。外の庭は敷地から出ない範囲で好きに使っていい」

建物の広さは実際に尋常ではなく、事前情報通りの面積。

「あの、他の人たちは……?あんまり、姿が見えないみたいですけど」
「今の時間に起きてるやつは大半が礼拝堂か談話室だ。それか自分の部屋。他は寝てるんだろ」
「寝てるって……。もう結構日が高い……ですけど」
「昨日軽く話した通りさ。ここでの生活は自由。お母様の膝元にいる限りは、どう生きていてもいいんだ」

美津の眉が微かに上がる。

「一緒に何かしたりとか、そういう決まりは何もないんですか?」
「したいやつはそうする。でも自ら望んでだ、決まりじゃない。ルールは一つだけ、この場所を捨てないこと。
 ……ここから出て行こうだなんて考えるやつ、今まで誰一人現れやしなかったけど」
「最後だ。礼拝堂と談話室に案内する」

儀式を行う礼拝堂、Y字路にそれぞれの行った先を示す矢印。

「本当に大きいんですね……」
「ああ、俺もたまに迷うくらいだよ。けど、心配要らない。
 何処に行っても、ここにいる限りは母様の中なのは変わらないから」

そういえば、と思う。ここに来てから、飢餓衝動の悪化速度が緩和されている気がする。
天野の匂い、を意識したのも偶然じゃない。食欲がある程度の治まりを見せていなかったら、恐らく別の感情が先に立っていたように思う。

「……」

自分の掌を見る。血は確かに通っていて、欲望は確かに息づいている。
人の存在、気配に、まず嗅覚と味覚が反応してしまう程度には。
嗅覚、匂いが――。

「!」

顔を上げる。
異質な匂いが鼻腔を微かに通り過ぎる感覚。
人間でもなく、オーヴァードでもなく、かつそのどちらでもあるような、

「ああ、津村さん」

そこで信治が声を上げて、一瞬の集中が途切れた。
奥の廊下から歩いてくる一人の男の姿がある。
取りたてて特徴のない顔立ち――背丈。
強いて言うなら、服装を問わないはずのこの場所でスーツ/ワイシャツ/革靴、
サラリーマンのような出で立ちをしていることぐらいしか特筆すべきものがない男。
その姿にしても、決して周囲から浮いているわけではない。
一つの雑踏、背景をぼんやりと見ているような思いが湧く。
しかしその事を意識できたのも一瞬だった。
瞬きした時には、既に匂いは消え、
“津村”のその印象は、酷く見慣れた既視感の中に――「ああ、よくいる」という感覚の中に失われてしまった。

「新しい方ですか。こんにちは」
「この人は津村さん。“窓口”をやってる人の中で一番の古株」
「案内中ですか?」
「はい」
「窓口、っていうと……」近江。
「俺がやってるような事さ。ここへの窓口。
 ここに逃げ込みたい、まだここにいない奴らのために、声を聞いて、連絡を取って、迎えに行く。
 色んなやり方がある。それを知ってて、取り仕切ってるのが津村さん」
「いやあ、仕切るというほどでは……」
「ここの殆どの人を助けるのに関わっておいて、そんな謙遜してもかえって嫌味ですよ。
 俺だって、津村さんに助けて貰ったんだ」

朗らかに話す信治。

「天野美津です」「……天野有です」
「どうも。これからよろしくお願いします」

去り際、微かに匂いを嗅いだ。
ごく普通の、人間の肉の匂いがした。

「礼拝堂、は昨日行ったな。談話室に案内しよう……今はそこに、母様もいる」

足音を吸う、それでいて足取りを邪魔することのない、上質のカーペットの上を歩く。重い談話室の扉を開くと、暗室から外へと出たような、しかし柔らかな光の殺到に、束の間目を細める。手をかざす。
その先にいるのは――、

《美津》

広い室内、天窓から差し込む陽光、生まれた陽だまり。
真夏に近いはずの太陽。その激しさもここでは、雪解けを促す三月のそれのように。
暖かい、と踏み入るまでもなく感じた。全てが差し伸べられるような陽射しの熱と調和していた。
“あの時”は自分の身体全部を包み込んで余りあった、大物のソファー。どこまでも続くように思えた、家の中を特別な場所にしてくれた大絨毯、ちらばる玩具、それを取り囲む、どこへでも行きたがる自分に配慮して選ばれた――当時はそんな理由があったなんて考えもしなかった――調度の数々。

《お帰りなさい》

「……美津?」

遠慮がちに近江から発せられた言葉で我に返る。
無論、全て別物だった。類似するものなど一つもない。ただ、“子供のための場所”という点が通じているだけの空間。
その中心、近江と信治の向こうに、“それ”の姿が見えた。
幼い幾人もの子に囲まれながら、絵本を読み聞かせている。
その周囲には親らしき大人たちの姿が見える。穏やかな表情、湯気の立つカップや茶菓子を手にしている者もいる。誰もが安心しきった様子で“それ”が絵本のページをめくる姿を、物語に身を乗り出す我が子の姿を見つめている。女性が多いが、それ以外にさしたる共通点は見られない。中には老人の姿もある。
“それ”が顔を上げる。驚いた様子はなく、むしろ初めから自分たちがそこにいることを、たった今扉を開けることを知っていたような表情だった。
――そして、その内心さえも。

「(ないわ。少なくともそう仮定すべき)」

指先一つ動かないよう注意を払いながら、精神を急冷する。急速に色あせていく記憶――それにすら何も思わなくなる程度まで。
凍り付いた意識で“天野美津”を演じる。この“安心できる場所”の主に再び対面した者の表情――戸惑い、安堵、混在への不慣れ、空間に対する弛緩と緊張――を表しながら。

「おはよう、母様」

信治が嬉しげに、文字通り、子供のようにそう“それ”を呼んだ。
自然な呼びかけ。それに違和感を持たない自分を、近江も感じていた。

「おはよう……ございます」

僅かに首を傾げ、微笑む“母”に向かって、ぎこちなく頭を下げる。

「おはよう、私の子供たち」

当然のように“母”はそう返した。子供たちもこちらを振り向いて新たに空間を訪れたもののことを見つめている。朗読が止まっても、泣き出したり、不機嫌を起こしたりする者もない。
理由――関心が自分から離れていないことを、彼らもまた理解しているから。
彼ら“も”。
相対してよりはっきりと自覚する。平等に漂う注意――視線、とも違う、感触、のようなものを感じる。

「(これが、天野の言ってた、“繋がる”って事か)」

恐らく、目を閉じても、耳を塞いでも、匂いが解らなくなっても――五感を失ったとしても、ここでは怯えを感じることなく存在することが出来るだろう。求めれば、幾らでも手を引いてもらうことが出来る――いつも、自分のことを気に留め、慈しんでいる者に。

「今日はここまでにしましょう。続きはまた明日」 「はーい」 「はーい」

奥の遊具が置かれた一角に駆けていく者、親の下へ戻っていくもの、その場の玩具を拾い上げて遊び始める者。立ち上がった彼女は、改めてその微笑みを三人に向ける。

「案内をしてあげていたのね。ご苦労様」
「ここに連れてきたのは俺だしね。それに、母様にこうやって直に会える」
「まあ、ふふふ」

くすくすと笑う仕草と共に甘い芳香が漂う。木と花を思わせる匂い。自生の印象。
同時に、滋養に富んだ肉が薫らせる、独特の。
法衣に似た、全身を覆う布地の下の肌は白く柔らかいのだと、どうしてか感じた。
つと目が合い、考え込みかけた思考が霧散する。こちらを見る相手の瞳は落ち着いていて、些かの揺らぎもない。そして再び、木花の香りに包まれている。

「私の子供たち。昨日はよく眠れたようで、何よりです」
「は、はい」

 深くまで覗き込まれるような感覚に襲われながら、何とか不自然でない緩やかさで目を逸らす。

「大切なことだわ。今夜も、明日の夜も、その次の夜も、ずっとずっと、そうであるように」

そう言って、笑みを深める立ち居姿は、これ以上ない自然体で。この場所の静けさ、しかし暖かく、孤独とも不安とも無縁な静けさを体現している。
――ああ、この人が、ここの中心なんだ。
主、という言葉は相応しくない。支配ではなく、一体。場所とその支配があるのではなく、場所と、緩やかに広がっているその場所の起点がある。それが彼女なのだ。

「こちらへいらっしゃい。少し、喉が渇いているでしょう」

言う通りだった。久しぶりに――随分久しぶりに、“普通のもの”が飲みたい気分だった。
衣を引いて示された先では、誰かによって煎れられたばかりの紅茶が湯気を立てている。
色あせていたはずの匂いが――かつてよりは遠くても――子細な刺激として、鼻腔を刺激した。


シーン12 無何有郷2

「この子からもう聞いているかもしれないけれど」

 信治に目を向け、ティーカップの中身を口にしながら、母は口を開いた。

「ここは、正真正銘、あなたたちの居場所よ」

窓際、眼下に庭。この部屋の子供たちよりは年嵩の少年少女が、光の中を駆け回る姿が見える。
暑さや寒さを気にしている様子はない。浮かぶ、常春、という言葉。

「あなたたちのために生まれ、あなたたちのためにあり続け、あなたたちの全てをまかなう。ここには危険なものは何もない」

こちらを見上げ、手を振る数人に当然のように笑顔を返す。同時に、きらきらと煌めく雨滴が晴れた空から降り注ぎ、子供たちが歓声を上げて再び走り出す。

「あなたたちが望むなら、如何なるものも与えましょう。食べ物も、飲み物も、眠りも、娯楽も――それを用意できるのは、他の子たちのおかげもあるけれど」
「母さんのくれるものがあるからだよ。みんな、望んでやってる。ここが好きだから、もっといい場所にしたくてそうするんだ」

信治が誇らしげに言った。まるで自分そのもののことを語るように。

「つまり、その……」

遠慮がちな様子で美津。

「私たちが何も持っていなくても、追い出されないってことですか」
「ええ」

 穏やかな返事。

「皆、最初はそう言う。居続けるためにはどうすればいいか、決まりはないのか、義務はないのか。どうしたらこんな恵まれた場所で生きることを許されるのか」

信治――慣れた様子で。

「けど、何も要らない。ここでは、誰もが母様の子だ。子は守られる――当たり前の理屈が、ここでは当たり前に通ってる。おかしいのは、“あっち”の方なんだ」

窓枠に嵌まった硝子は当然のように真透明で、光る雨の向こうに、煙った高層ビルの姿が微かに見える。

「だから、俺たちは活動を続けてる。あっちとこっちを、間違った世界と、正しい世界とを入れ替えるために」
「入れ替える……?」
「いずれ分かるさ」

肩をすくめる。

「とりあえず言えるのは、君らは何もしないでここにずっといていいってこと。勿論、“案内”の手伝いをしてくれるんなら助かるけどね。あと、他に呼びたい人がいるなら、その人について分かること――連絡先とか、名前。性格、不用意にここのことを誰かに話さないかどうか。そのぐらいだよ」

カップの中身を飲み終えると、立ち上がる。

「案内することはこれでひとまず全部だ。まずは何日か、ここでの暮らしを満喫して疲れを取るといいよ」

視線は既にこちらを離れて、目は向かいに座す母に向けられている。

「先に行ってる、母様。ご褒美、今がいいんだ」
「そう。相変わらず、あなたは我慢がきかないのね」

咎めるでもなくそう言うと、母の眼差しがゆっくりとこちらに移る。

「今、あの子が言った通り。傷を癒して、お眠りなさい。それから、あなたたちのことを、ゆっくり聞かせて?」
「……はい」

残り香が消えるまではすぐで、後には僅かに中身を残したカップが残るのみ。
自分のものを手に取り、温度の若干下がったそれを啜る。何かを隔てたような感覚は消えきらないまでも、きちんと、よく入った紅茶の香ばしい味がした。


シーン13 無何有郷3

「掴んだことをまとめるわよ」

戻ってきた室内。たった一晩過ごしただけの仮の住まいでも、演技をする必要のない空間に鍵をかけると、それだけで随分と落ち着く。
鞄に擬態していたファーレンハイトが、タブレット型電子端末を抱えた姿で現れる。

「そんなもの、どこから……」
「ファーはエグザイルだからね。この手の擬態や収納、変形は大の得意よ。人選には理由がある、当たり前のことでしょ」
「って言ったって」

明らかにポーチからはみ出る大きさのものを一体何処にしまっているのか。
呆気に取られていると、

「ユウには、無理」

ふっ。と、無表情ながらどことなく勝ち誇った気配を漂わせてくる。

「ああ、うん……」

人によってはむっとする者もいるのかもしれないが、と思いながら曖昧に頷いた。
元々の人形のような顔の造りに反して、妙に人間くさい顔をするものだから、加えて身長差のせいでどことなく背伸びしたような体勢になっていて、

「(可愛い、が先に立つんだよな……)」

と思ったのが顔に出たのか、今度は不満げな様子に変化。

「(ますます何だか、)」

見慣れてくると百面相。存外に感情豊かなその面(おもて)に、つい相好を崩しそうになって、外とは別の意味で表情筋の制御を迫られる。凝視との睨めっこ。
救いの手は脇からのぶっきらぼうな声。

「ファー、寄こして」 「……わかった」

ファーレンハイトの首筋から一条の細い端子のようなものが美津へと伸びる。先端が針状になっているそれを、後ろ髪をかき分け、ごく自然な仕草で差し入れると、ファーレンハイトの持つ端末に高速で情報が表示され始める。
同時に開き、図と文字が走っていく複数のウインドウ。
建物の内部構成、内側から視認できる敷地内風景、目にした人物の顔写真リスト、推論のために書き下された複数の事実関係/発言。
その中でも最前列、特に目立って表示されるもの――重要な情報の箇条書き。

《1.ここは空間的に閉じている》
《2.“布教”は信者が自発的に行っている行為である》
《3.推定される行動目的:  》

「……」
「ファーとは直結したから疎通済みだけど、あんたとはまだだから口頭で話すわ。疑問点は?」

問われて口ごもる。自分の知っているやり方と何もかもが違う。
が、眼前の少女が求めているのは当惑(それ)ではない。本来聞きたい質問は脇に置いて、純粋に情報を通して湧いた疑問を口にする。

「……一つ目。俺も感触では同じことを思ったけど、根拠は?」
「唯一と言ってもいいルールの存在と、領域境界の歪み。それと、脱走者の不在」

施設を周囲の街区ごと俯瞰するマップが現れ、赤い光点が複数浮かぶ。

「近隣区域を隊長たちが洗ってくれたけど、助けを求められたり、声や異常の類を見聞きした人は誰もいなかった。確認できる窓から何カ所か、視覚距離を測ってみたけど、どう考えても狂ってるわ」

立体映像となって表示された街区図の中には高層ビル、電波塔の姿が幾つか並ぶ。

「あんた、この内の一つでもはっきりした形で見た?」
「いや……」

談話室での景色を思い出す。ぼんやりと見えた外界の景色は、この地図の通りならもっと近くに居並んでいることになる。

「失踪者の手がかりを探してここに立ち入った人間もいたけど、散々迷った挙げ句、数時間かけて入り口に戻ったそうよ。恐らく、ここの境界付近は実態の数十倍近くに引き延ばされてる。他に何が要因かは分からないけど、許可しない侵入、脱出を阻む要素が揃ってるのは確か」

最前列化する失踪者リスト。列挙される推定動機――中には現実の楔に半ば引きずられながら消えたような人間も。

「内側から見ても同じ結論に辿り着くわ。この中の誰も、脱走をただの一度も考えなかったなんてことはあり得ない。それが隊長たちの判断」
「……」

締め切られたカーテンの下から漏れ入ってくる、陽光の柔らかな白が揺れる。
美津の視線もひととき、同じ場所を向いた。だがすぐに、何もなかったかのように続けた。

「他には?」
「……二つ目。誘拐は“母”が主導していることじゃない?」
「十中八九。手口の質が違いすぎる」

室内を見渡して言う。

「“布教”――誘拐はかなり狡猾に、慎重に行われてる。明らかに、ここに招く相手を選別した上で秘密裏に実行されてる。それはここに来るまでに踏んだ手間の数で思い知らされてる」

でも、“あれ”の態度は違う。

「正反対なのは見て分かったでしょ。“あれ”は選別なんてしない」

今この瞬間も漂う接続と供給の感覚。
紐を引けば、“彼女”を呼べば、必ず応答がある。そう確信できる類の。
確実な――そして一方的な――繋がり。領域内の全ての人間と築かれているであろう繋がり。

「何が相手だろうと、“あれ”は入ってきた人間に同じことをする。接続して、肥育する。要請に応じる。“子供”として守る。好井信治が言ってたことは、多分嘘じゃない」

思い返される言葉――“不用意にここのことを誰かに話さないかどうか”。

「津村って男が鍵ね。副官、幹部、そういう連中が別働してると見て調べを進めていく必要がある」

捜査線を表していた図が二股に分かれる。“母”と、信者を動かしている何者か。

「目的はこの二つを繋ぐ場所で見つかるはずよ。少なくとも、ここが構築運用されている理由はわかる」

そこまで言って、美津は手にしたペットボトルの中身を啜った。
ほんの少しだけ。不必要なものを飲み下すように。
そして短く口にした。

「他に質問は?」

近江は、

「……」

黙して、言葉を探すように、視線を逸らした。
向かった先――カーテンが遮る硝子窓。明るい陽射し。微かに聞こえる子供たちの歓声。

「……いいのかな」

殆ど独り言のように、ぽつりと零す。

「ここをこのまま暴いたら、きっと、ここは今とは違う場所になる」

少なくとも、何かが失われる。完全に閉鎖されているからこそ、この紐帯は保たれている。
教団の名が思い出される。“母の導き”――救う者ではなく、救われる者こそが口にするだろう言葉。
もし、誰も悪くなかったら。
ただ、この場所を失うまいと恐れる者と、ただ“母”たらんとする者がこの場所に集っているだけなのだとしたら。

「必要なことよ」

温度のない声で、美津が返した。

「理想の居場所なんて、逃避したい人間の頭の中にしかない。自分の手で他の誰かを押し退けて、蹴落として、上り詰めた所にしか、人間に都合のいい居場所なんて生まれない。ぬるい生き方してきたあんただって、そのくらい分かってるでしょ」
「……」
「ここの何処かには、絶対に歪みが埋まってるわ。それを掘り起こすのが、私たちの仕事」

納得したら準備しなさい、と、立ち上がりながら抑揚の薄い声が言った。
再びポーチに擬態したファーレンハイトを肩に掛け、針を抜いた首筋に黒髪を流す。
その背中を、座ったままの近江が見上げた。
マンションのあの夜に抱いた感情――言うべき言葉があるという思いが、もう一度、静かに胸に迫り上がった。
けれど、肝心のその言葉は指先をすり抜けて、合わせた手の隙間から滑り落ち、再び戻ることはなかった。
立ち上がる。入り口に立つ美津の隣に追いつくと、ドアをくぐり、二手に分かれた。
途中、一度振り返った。美津が振り返ることはなかった。


シーン14 好井或乃

PC1


「やることは学校の時と同じよ。雑談の体(てい)で会話して、情報を聞き出す。今回は怪しい連中も多いし、あんたのその無駄に鋭い鼻をフル活用しなさい。二手に分かれて収集、いいわね?」
「(とは言われたけど……)」
 庭――燦々と光の降り注ぐ木立、小径。
 鳥のさえずりが聞こえる。――裏を返すと、それほどに静まりかえった空間を歩いている。
「はぁ……」
 疲労の滲む吐息が深く漏れる。吸うと、植物、緑の香りが鼻腔をいっぱいに満たす。
 そうしたところで、“それ”の感覚は消えない。けれど、気を紛らわすものが全くないよりはずっと良かった。
 少し開けた場所に出たところで、ベンチが見つかる。沈むように腰を下ろすと、再び溜息が零れ出た。
「――」
 数度、呼吸する。肺の中身を少しでもましなものに入れ替えようとする。
 やがてようやく人心地がつく。――ついたことに、無理矢理する。これ以上良くはならないことを観念して受け入れる。
 木漏れ日、晴れ空、適温、そよぐ風。整然として穏やかな調和。文句のつけようのない楽園の美景。
 息苦しげに目を細めて、内心で独りごちた。
「(これが本物だったらな――)」
 嗅覚。オーヴァードとなってから五感として突出したそれが仇になっていた。
 匂う――今となってはここでさえ。
 目を閉じて、視覚を遮断する。擦れ合う五感同士のずれを一つでも減らしたかった。

 “そのこと”に気づいたのは、美津と分かれて少し経ってからのことだった。
「(匂いが、強くなってる)」
 初めてここに着いた時感じたもの。体内――一つの秩序、ホメオスタシスの清潔の下に統制された“肉の内側”、その匂い。
 見知ったものではない。近江有の知っている匂いは、あくまで対象物、餌としての、破損の契機を含んだ肉の匂いだ。流れる血、溢れ出でる精気、食欲と直結する匂い。
 ここに出血はない――血液は、張り巡らされた無欠無尽の管の内側を不穏なく循環している。
 ここに損傷はない――無謬の精髄が有機の連帯を持ち、遅滞なく滞留している。
 いきものの、生の、無支障に稼働する細胞と粘膜の匂いが満ち満ちている。
 あたかも眠っていた命が目覚めて、停止していた活動が再開されたかのように。
 何処へ行っても、“それ”の気配が色濃く香る。“彼女”の匂いがついて回る。
 昨晩まではうっすらとしか感じなかった。朝にはまだ感覚が違和感の根因を認識していなかった。昼が訪れて――感覚が慣れ、同時に信徒たちが表に出始めた事で、ようやく分かるようになった。
「(これ……この場所の、“繋がり”の匂いなんだ)」
 臍帯――へその緒、と永山は表現した。
「(隊長の言った通りのものなんだ、多分)」
 大元は恐らく、“母”なのだろう。それと繋がった命が、因子を自身に定着させ、その結果有り様を変質させ、同じ匂いを発するようになる。内膜の匂いを。
 そしてその故に、それら繋がった命が活発になればなるほど、蝟集すればするほど、匂いは強く、執拗になる。
 その結果がこれなのだ。
「……」
 人の姿があちこちに見える。談笑するもの、穏やかにただ歩くもの、何処かへ向かっているらしきもの、所在なげに佇むもの。
 食欲は湧かない。恐らく、植え付けられた因子のせいだろう。自分も今は、繋がりの中の一部なのだ。自分自身の血肉に食欲を感じないように、ここの人間と接しても、捕食の誘惑に悩まされることはない。
 だが、代わりにある種の不快感が身体を取り囲む。あたかも自分の身体が複製されて、それらが自分を取り巻いているかのような。その奇妙な感覚が、意識の輪郭にじりじりと負荷をかけてくる。
 自分と似ていない人間ばかりなのに、ある一点を基点に“自分”である――違う自分が、何人もいる。その違和感。
 誰もそれを気にしていないようだった。それどころかむしろ、一種の安心感すら覚えているようだった。
『キミはどうしてここに?』
 誰もがそれを第一に口にした。ここでは傷の共有が自己紹介の代わりだった。
 その共感が済むと、近江は受け入れられた。あたかも昔からの繋がりを持つ友人同士、家族、或いはそれ以上の存在のように。
 おかげで情報を引き出すことは容易だった。皆喜んで教えてくれた。しかし近江の方が耐えきれず、早々に人の輪の中から離れてしまった。
 外に出で、人気の少ない方へ――嗅覚が匂いを感触しないで済む方へと移動し、この空間へと這々の体で辿り着いたという具合だった。
「……」
 異質な匂いに馴染もうと努めながら、考える。これは、悪い事なのだろうか、と。
 美津の言う通りかもしれない。この在り方は、間違いなくいびつだ。
 少なくとも、尋常の人間の生の枠からは外れている。ここでは、様々な意味で誰もが一人ではない。望もうと、望むまいと。
 しかし、それがここに集う人間の救いとなっていることは確かなのだ。
 この“匂い”は痛みを孕んでいる。それはここが、傷付いた者たちを癒す場であり続けているからだ。胎は個人では抱えきれない苦痛を吸い上げ、分散し、修復のための養分を与える。
『この現実よりいい場所がどこかにあるなら――』
 記録映像の中で少年が口にした言葉がリフレインする。ある種の人間にとって、ここはそうなのだ。
「(それなら、俺たちのやろうとしている事は――)」
 蹂躙の朱、忘れ得ない匂いの記憶が脳裏に甦る。
 狩猟の甘美。捕食の快楽。
 息を吸った。吸って、もう一度自分がいるこの場所を確かめようとした。
 その時。
 ぱき、と枝の折れる小さな音が意識に届いた。
 同時に匂いも。
 それに気を惹かれたのは、その在り方が、他の信徒たちと少し違うような感触がしたからだった。
 振り向く。相手からすると、脈絡なく気付かれたように感じたのだろう。戸惑うような表情。
 少女だった。何処か見覚えのある。
「……昨日の」
 少し考えて、思い至る。昨晩、好井信治の手引きでここを訪れた際、ヴェールを携えて迎えてくれた少女。
「はい。あの」
 言いかけて、言葉に詰まった様子を見せる。
 あの時はろくに確かめるいとまもなかったが、随分と大人しげな出で立ちをしている。
 服装は他の信徒たちとほぼ同じそれ。違うのは、装飾が少々多く、手が入っているように見える点、ぐらいであろうか。
 にも関わらず、印象はかえって薄い。暗がりの中ではもう少しはっきりしているように思ったが、こうして光の下で見ると、輪郭の薄さが目立った。
 輪郭――存在、精髄の。
 信徒たちは性質こそ異様であっても、存在としては安定していた。
 だが、この少女はそうではない。
 匂いの質の違いがそれを裏付けている。大なり小なり、一定程度“母”のそれと同化していた他の信徒たちと違い、個の匂いを僅かに強く感じる。
 “母”と個、二つの異質の衝突が、彼女の輪郭をほつれさせ、結果として気配を薄めている。考え事をしていたとはいえ、気付くのに遅れたのは、どうやらそれが原因のようだった。
「……お加減が、悪そうだったので」
 気付けば無言のままじっと見つめてしまっていた。少女は落ち着かない様子で視線を逸らすと、少し顔を赤くしながら言った。
「好井或乃(あるの)です。兄の案内で、兄妹で、いらした方ですよね」
 あらためて、初めまして。と小さな声で言った。
 遠慮がちな、しかし物言いたげな瞳。その面には、何か躊躇うような色が滲んでいた。

「ご気分、いかがですか」
 やや離れて隣に座り、ぽつりと呟くように問いかける。
 どう返すべきか、一瞬迷ったが、正直に答えることにする。
「ちょっと……いや、あんまり。空気に慣れなくて」
「最初は、そういう方もいらっしゃいます。何日か……肩の力を抜いてゆっくり過ごせば、良くなるかと」
「そんなに俺、具合悪そうでした?」
 なるべく隠して外へ出たつもりだった。
「いえ、その……たまたま、わたしは天野さんが、昨日いらしたことを知ってたので、それで……」
「それで」
「……その、見ていたので。気付いた、んです」
 脚の上に置いた手を見つめながら、詰まり気味に言う。
「さっきも言ったんですけど、来てすぐだと、気分が悪くなる方もいらっしゃるものですから……」
 すぐ近くで振る舞いを見ても、印象は変わらなかった。他の信徒とは様子が違う。
 好井或乃。暗記した失踪者リストにあったその名前を思い出す。
 調査開始の切欠となった要人の子息、その一人。好井信治の妹、年齢は十六。
 かなり初期の段階の失踪者――信治の立場と、他と異なる装いから見て、恐らく何らかの立場にあると考えられる相手。
 僅かに緊張が走る。失言は身分の露呈に繋がりかねない。同時に、何か手がかりが得られるかもしれないという期待。
 けれど、それより先に、別の感情が立った。予期、にも近い感覚。
 ――親近感。たぶん。
「もしかして、好井さんも?」
「或乃でいいです。あと、敬語とかも。兄といる時も多いですし、私の方が、天野さんより年下ですし」
 そう答えると、ようやく視線が手から少し離れる。
「兄は大丈夫だったんですけど、私はなかなか慣れなくて。ここも、よく来てたんです。だからいなくなった時に、もしかしたら、ここかなって。本当にいるとは思ってなかったので、少しびっくりしたんですけど」
 揺れる影が二つ。どちらも、淡い木漏れ日を受けて輪郭がぼやけている。
 或乃は自分のそれを見ている。一人の時もそうしていたのかもしれない、という思いが湧く。
「立ち入ったことを伺うんですけど……妹さんとの仲は、いいですか?」
 ぽつりと、或乃が尋ねる。
「……うん。大丈夫、だと思う」
 殆ど反射で聞き返す。
「そっちは……あんまり?」
「……はい」
 小さく、予想通りの返答。
「ここに来るまでは、それなりだったんですけど。兄は、お母様とよく水が合うみたいで。今ではああやって、積極的に案内もしてます。昔より、ずっと良くなったと思います。家にいた頃は、わたしを守って、気を張ってばかりだったので」
 傷を思い出す匂いがした。かなり痛々しい――共有することすら苦痛となりそうな。リストにあった付記――“親子関係の不和”。政治家の父親との三人暮らし、離婚家庭。失踪直後の調書――心当たりに見当も付かず。にもかかわらず捜索には執着――何らかの暴力を振るっていた疑い。
 作法に則って共感を示すべきか、束の間逡巡して、やめた。
 それはたぶん、彼女に対して失礼な態度だ。それより、別の言葉を交わすべきだと思った。まずは、……後で、例えそうしなければならないとしても、打算抜きで。
「俺も、有でいいよ。こっちも、呼び分け必要だし」
 なるべく、もう大丈夫だと相手に伝わるように、平気な口調で喋った。
 実際、或乃と一緒にいることで、少し辛さが和らいでいた。
「或乃は、こっちに来て長いの?」
「もう、大分前になります。今みたいに人が沢山になる前から、ここにいました」
「その頃から、ここはこんなふう?」
「はい。ものや、庭なんかが整う前から、お母様を中心に、ずっと」
「……もう、すっかり慣れた?」
 少し間が開いた。影を見たままの或乃は、やがて思った通りの返事をした。
「……まだ、ちょっとだけ」
「……そっか」
 それで、話しかけられた理由が分かったような気がした。
 今度は、共感してもいいと思った。自分が或乃の立場なら、きっと同じことをしただろうから。
 それからしばらく、当たり障りのない話をした。学校の今の様子、この建物の作り、こちらに来てからの暮らし、お互いの好きなもの、苦手なもの。
 好井或乃は、ごく普通の少女だった。友達がいて、悩みもあって、失敗も、小さな成功も、コンプレックスも、もしかしたら少しだけ他の人より得意なのかもしれないこともあって、他人には取るに足らなくても、自分にとっては大切である思い出もあって。
 そして、ごく普通の人にとってたった一つしかない“日常”を捨てて、ここに来るだけの理由も持っていた。
「ここは、いいところです」
 偽りの木漏れ日を、そうと知ってなお眩しげに見上げながら、或乃は言った。
「来る前は、つらかったです。兄さんが行こうって言ってくれてなかったら、今頃もしかしたら、自殺とかしてたかも」
「……うん」
 自然に頷いた。言いたいことは、たぶん解ると思った。
「皆、幸せそうです。大人の人も、小さい子も。皆、ここに来て良かったんだと思います。だから、ここは、必要な場所なんだと思います」
「……うん」
 だけど、と言って、或乃は口ごもった。
 視線を上げて、近江を見る。初めてする仕草。
 それで、最初から言おうとしていたことを今告げようとしているのだと解った。
「あの、有さん。その……」
 白地に金の刺繍が、陽射しの中で明るく光る。
「……もし、馴染むのが上手くいかなくて、苦しくても。何か嫌なところがあったり、合わない人がいたりしても。出来たら、この場所のこと、受け入れるようにしてみて下さい」
 酷く、引っかかる物言い。歯切れの悪い、けれど必死なことははっきりと判る。
 この一言を言うためだけにわざわざ自分を探してくれたのだと解った。しかし理由が判らなかった。
「あと何日かしたらわかります。会ったばっかりのわたしに言われても、きっと、そんな気にはならないと思うんですけど、でも、お願いします」
『まずは何日か――』
 信治の口にした言葉がリフレインする。
 目の前の少女の、兄とあまり似ていないその面を見下ろす。
「……わかった。出来るだけ、そうしてみようと思う」
 案ずるようだった顔が、その一言でぱっと明るくなる。
 会ってから初めて見る、憂いの晴れた表情だった。


シーンEX interlude

PC1


「間違いなく、何かあるわね」
 一つしかない椅子と机を独占して、食料庫から持ってきたという抱えるほどのホットドリンクを次々と飲み干しながら、美津が断定した。
 日没後、室内。豪奢な大浴場で身繕いを済ませ、お互い信徒の夜服という格好での情報共有。
「こっちでもその“数日後”のこと、何回か会話に出かけたわ。“回帰”って言葉と一緒にね」
 こ、と空になったペットボトルが続けざまに音を立てて置かれる。美津の代替食、熱量――恐らく今の状態ではそこまで必要ではないもの――恐らく反抗として意図してそうしているのだろう摂取。
「でも、聞いても誰も教えてくれない。口を揃えて、『その日になればわかる』の一点張りよ。口で説明するより、見た方が早いし、その方がいいって」
「あの子も同じようなこと言ってたよ。いい、とは言ってなかったけど」
「そこが引っかかるわ。こっちで話題に出た時には、その好井或乃が言うようなマイナスのニュアンスは感じられなかった。むしろ、たまにしか来ない良いことがあるみたいな口ぶり」
 
 正反対。その食い違いの理由が気になった。
「推測材料があるとしたら、好井妹がわざわざあんたに声をかけたところね」
 美津のベッドの柵に腰掛け、足をぶらぶらさせているファーレンにドリンクを渡しながら、思案顔で言う。
「領域に馴染めない人間……共通点はそこかしら」
「多分、そうだと思う。何か自分の心配というより、俺のためを思って言ってくれてる気がした」
「えらく自信過剰な感想ね。あるいはド純朴(ナイーブ)と言うべきかしら。相手に打算があるかもとか考えないの?」
「考えたけど……。或乃はたぶん、そういうタイプじゃないと思う」
「或乃ね」
 表での自信のなさそうな風情は何処へやら、頬杖を突いた姿勢で剣呑、プラス、どことなく不機嫌なオーラを漂わせる美津。
「まあいいわ。“回帰”についてはそれしか情報がないわけだし、どうあれここにいる内は、領域に順応するよう努力すべきだわ。とりあえず忠告には従いましょう」
「わかった」
 どことなく、いつもより更に不当な扱いを受けている気がした近江だが、ともあれ話を続けることにする。
「もう一つ、“案内”役の連中について――こっちはかなりはっきりした情報が集まったわね」
 既に神経接続済みの美津-ファーレン-端末。失踪者リストの氏名と紐付ける形で、聞き取った情報が表示されていく。
「“教義がない宗教団体”みたいな顔してる“母の導き”だけど、実際には組織的な動きが存在してる。“役職”があるし、それを務めてる連中は特別視されてる」
 強調表示/先頭にソート。複数人物の名前と顔写真。
「暫定“幹部”と呼んでおきましょうか。連中だけに限って言えば、“母の導き”はれっきとした宗教集団ね。教義は至ってシンプル、《“母”と繋がることが現世救済に直結する》。その考えの下に信徒――今となっては“接続者”と呼び換えるべきかしら――を増やしてる」
 頷く。様々な層の人間がここにいて、それぞれ違うことをし、別のことを重んじ、それぞれの小集団を作っているが、どの集団も《“母”と繋がる》ことに第一の意義を見出していることだけは共通していた。孤独ではないこと、痛みを分かち合えること、そしてそれが“母”によって引き受けられ、癒されること。
「胡散臭さの話は置いておくとして、即物性は圧倒的だわ。何しろ、エフェクトを使って実際に影響を全員に及ぼしてるんだから。どんなペテン師もお手上げ、種も仕掛けもお構いなしの超・超力技」
「一応確認するけど、オーヴァードだからってそんなこと出来るのかな?」
「よっぽどの使い手でもない限り至難の業ね。元々そういうのに特化した能力者で、その上で24時間365日、滅私奉公で力を使い続ければ何とかなるかならないかって感じ」
「……」
「あんた、可能性があるってまだ思ってるわけ?」
 美津の声が苛立ちを帯びる。
「仮にそれが出来たとしても、規模には限界があるし、気を抜けば一瞬でジャームに堕ちるわよ。そうなったら最初の理想も何もない、人間が理解できなくなって、どんどんちぐはぐな袋小路に突き進んでいくだけ」
「わかってるよ」
「わかってないわ」
「わかってる。……天野だって俺の言いたいこと、わかるだろ」
「……」
「どういう意図と仕組みでここが回ってるとしても、ここの人たちは、ここにいることに納得してる」
 脱走者がいたはず。“隊長はそう判断した”。美津自身、そう言葉を使った。
「脱走者はいたかもしれない。でも、いなかったかもしれない。……少なくとも、そう思わされるくらい、ここにいる人たちはみんな、逃げてきたことを正解だったと思ってる」
「それは異常よ」
「異常でも、生きてる」
 そこで言葉を止めた。止めて、美津の目を見た。それより先は言いたくなかった。
 美津は険しい顔で視線を合わせ、激情の滲む瞳で近江を睨み据えたが、ややあって目を閉じ、深く溜息を吐いた。
 深く、深く。自分の内側で煮え立った何かを冷まそうとするように。
「あと数日。少なくともそれまでは、今日と同じような日が続く。情報収集を続けるわよ。殺人――脱走者処分の証拠を掴むか、“マザー”、それか幹部連中の中に人食いがいると確定すれば、私たちの仕事は終わり。殺しなら余所が対応するし、人食いなら、上層部(お偉方)の認可を取って、改めて部隊としてここに踏み込んで、組織を解体する。犠牲者を踏みにじることで維持されるユートピアなんて、あってはならないもの」
「……うん」
「じゃあ、これで話は終わり。寝るわよ」
 静かに立ち上がり、掛けていた上着を投げ渡すと、気遣わしげに見上げるファーレンと共にベッドに入り、こちらに背を向けて無機質な声で言った。
「明かり消して」
 近江はしばらくその場で押し黙っていたが、やがてその通りにして、自身もベッドに上がった。
 暗闇の中、声が脳裏で反響する。
『兄さんが行こうって言ってくれなかったら、もしかしたら今頃、私は――』
 胸の内で不意に、飢餓が顔をもたげる気配を感じて、遮るように目を閉じた。
 ――俺たちだって、外の理屈だって、十分異常じゃないか。
 言わなかった言葉を、自分の心の中でだけ繰り返して、意識を手放した。
 嫌な夢を見た気がした。獣と化してから、一日と於かず見るようになった、血の匂いのする夢だった。


シーン15 “回帰”の儀式1

PC2


 炎(それ)はいつも、私の心臓(むね)の奥からやってくる。
 深い氷の底、埋め立てた記憶の内側。消せない導火線の内壁を辿って、熱を、暖かさを、辺り一面に振りまいて。凍らせた痛みを溶解させながら、じわじわと、しかし確実に、私の水面に向けて這い上がってくる。
『ミヅ、ミヅ』
『みっちゃん、おいで』
 聞こえる、初めは優しい声。わたしの中に温もりをくれる声。
 嬉しい時、一緒に笑ってくれて、悲しい時、私を慰めてくれて、つらい時、恐い時、いつだってわたしの傍にいてくれて、わたしがぎゅっと手を握ると、やわらかく、つつむように握り返してくれる。
 わたしのだいすきな、おとうさん、おかあさん。
 何時からだろう。その暖かさが壊れてしまったのは。
『――――』
『――――!!』
『――――!』
『――――!!』
 だれもいない隣の部屋に駆け込んで、ドアをしめて、しゃがみこんで、耳を両手でふさいで、目をぎゅっとつむる。
 明かりも暖房もついていない部屋はくらくて、さむくて、でもそれでも、あの場所にいるよりはずっとよくて。何も聞かないよう、ちらつくおとうさんとおかあさんの影を見ないよう、ただただ、とじて、じっとして、恐い時間が過ぎていくのを待つ。
 そのうちに、足と手と、指先から冷たさが忍び寄ってくる。それはいつのまにか、わたしを“そこ”から遠ざけて、わたしを自分の内側、中のほう、奥のほうへと、静かに、蝕み沈めていく。
 風が吹いて、ぱたた、と雪がガラス窓に張り付く。ひょうひょうと風音が立つたびに、雪は溶けずに降り積もっていって、やがて固く、分厚く、氷の層を成していく。
『――――!!』
『――――!』
『――――』
『――』
 感覚が凍り付く。知りたくないものが遠くに離れていく。
 わたしはそれに安堵する。暖かくないことは、つらくて恐くて一人でいることよりは、ずっとましで苦しくないことだから。
 けれど、私はその陥穽を知っている。それが向かってはいけない方向であることを知っている。何も知らない子供一人が、無軌道に寄りかかってはいけないよすがであることを知っている。
 ぴき、ぴち。
 冷やしすぎた心が、芯まで、髄まで、ひび割れていく音を聞いている。
 真っ暗な部屋の片隅で、わたしがわたしの本質に、自己保身という一つのエゴの塊に成り果てていく様子を眺めている。
 止める手立てはない。これは再生(リプレイ)だから。私の奥底に刻まれた原初の、最も強い記憶の再現だから。
 始められた火刑の炎が消えることがないように、この再生もまた、架されたわたしが致命の瞬間(クリティカル)を迎えるまで途切れることはない。
『(――さむい)』
 わたしが心の奥、追い詰まった袋小路(バウンダリ)で呟く声が聞こえた。幼い、強度も覚悟も技量も経験も持たない、未熟で弱々しいわたしが、いとも容易に到達してしまった限界点(バウンダリ)。
『(さむい、よ)』
 全身の感覚が心臓一つを除いて消失し、入れ代わりに、凍(しば)れきった肉と骨の軋む感触が身体を鈍く走り抜ける。
『(こわい、よ)』
 けれどこの手を離すわけにはいかない。声を、大事なものの壊れる様を聞いてしまうわけにはいかない。そして何より、その掌で助けを乞うべき相手は、どちらも自分のことなど一瞥もしていない。
 ――熱、が、ほしい。
 と、思った。
 このまま誰にも――気付いて欲しい人にさえ気付かれずに息も出来なくなってしまうなんて、そんなこわくてさびしい終わりを迎えるのはいやだと思った。
 寒さを取り除く手段が必要だった。自分を助けてくれる何かを手に入れなければならなかった。
 さして多くはない思い出の引き出しから見出されたもの――かつて、まだ優しかった、お父さんと、お母さんと一緒に囲んだ熱――組まれた薪の内で燃えている火。
『(あったかいね)』
 餓えた心はそれに飛びついた。そして、そうすると同時に、希薄化していた思考の全てが裏返った。
 ――足りないのは、熱だ。おとうさんも、おかあさんも、きっとその大切なものをなくしたから、こんなことになってしまったんだ。
『(あったかいね)』
 リフレインする、思い出の記憶。気付けば、いつの間にか耳を覆うのをやめ、何かを掬い取るように併せた掌の上に、その朱橙色が揺らいでいた。
『あった、かい……』
 ぽつ。ぽつ。ぽつ。
 望んだ場所に炎が灯る。暗い部屋の四隅、誰もいない中央、テーブルの上、写真立てのフィルム、光と冷気と言い争う声とを遮断するカーテン、ドア、窓ガラス。
 熱の輝きが大きくなる。壁を伝い、家具を伝い、床を伝い、天井を覆い、やがて幼いわたしを取り囲む全ての空間をその光で満ち満たす。
『ああっ――!?』
 ドアが開いて、おとうさん――それともおかあさん――が部屋に駆け込んでくる。室内を手の付けようがないほどにまで燃え盛らせた炎は有毒の煙を生み出し、咳き込ませる。
『こんな……どうして!?』
 意識の殆どが凍り付いていたのに、この時やり取りした言葉だけは何故か鮮明に覚えている。
『さむいの、いやだから』
 おとうさんも、おかあさんも、きっとそれをつらく思っているはずだから。
 まだぎしぎしと軋む身体を動かして、やっと怒っていない顔をしている二人の姿を視界に収める。そして、もっとやさしい顔になってくれたらいいと思う。
『おとうさん、おかあさんにも、あげる』
 ぽつり。
 掌で揺れる灯火の熱を、一番大事な胸の奥にプレゼントするために、二人に向かって掲げた。
 次の瞬間、視界が激しいブラッド・オレンジに染まる。
 悲鳴は聞こえなかった。自身を襲った前触れも、経験もない激烈な熱傷の痛みにかき消されて、思考回路がまず先に焼き切れたようだった。
 レネゲイドの火は物体の都合を勘案しない。斟酌なく全てを焼き尽くす。
 痙攣する筋肉と運動神経系の暴走作動によって身を引き攣らせる二人の姿を、わたしは何が起こったのか理解できないまま見つめ、記憶した。
 理由はわからないけれど、とても悪いことをしてしまったのだという思いが湧いた。取り返しのつかない、何か途轍もない失敗を犯してしまったのだと。
 元に戻そうとして、徒(いたずら)に死の舞踏に飛びついた。しかし何も出来ることはなかった。炎は勢いを増して燃え上がるばかりで、小さなわたしの身体はいとも容易く二人の藻掻きに跳ね飛ばされて、燃え盛るフローリングに這いつくばった。
『おとうさん、おかあさん』
 返事をしてほしいと願って呼んだ。予感が正しくないことを、罪を犯してなどいないという保証を、一番信じられる人たちの口から聞きたくて。
『おかあさん、おかあさん、おとうさん、おとうさん』
 倒れて動かなくなってしまった二人を揺すぶりながら、炎の中で何度も呼んだ。
 既に熱はわたしの制御を越えていて、辺りは眩しすぎるほどの極彩色に揺らめいていた。
『やだ、やだ、やだ』
 もういらない。もう消えて。
 そうしないと、全てがなくなってしまう。
 わたしがたいせつにしたかったものが、みんな燃え去ってしまう。
 一晩中、そうして、叫んで、叫んで、喚いて、泣きじゃくって――。
 ――その果てに、空から嵐のように吹き降りて来る吹雪と、居並んだ数台のライトバンの光の中で、私は息をしていた。
『天野美津ちゃん、だね?』
 黒焦げの死体二つの脇で、煤塗れでいる私をその名前が呼ぶ。
 ミヅ、美津、わたしの名前。たった一つ焼け残った私の持ち物。
 わたしが壊してしまった居場所の墓碑銘となるもの。
 私は頷いた。それが私の名前であることを受け入れた。
 そして私は天野美津になった。小さなわたしを見ていた私と、同じものになった。

「――、」
 再生が終わる。それと同時に、目が覚める。
 陽射しは柔らかく、室内は適温。すぐ傍に、慣れ親しんだ温もりがある。
 小さな体。熱量を求める私の相棒。
「……」
 何も言わず、私の腕の中で私のことを見上げていた。
 この夢を見るときはいつもそうだ。うなされている訳ではないらしいけれど、苦しんでいることはわかって、それで目を覚ますのだと。
 額を合わせて、軽くお互いの意識を繋ぐ。簡単な意思疎通や、状態把握ぐらいなら、このぐらいで出来る。
 いつもの日課――維持調整(サポート)が望めない現場で日を跨ぐたび、定期的に行う状態確認
 精神状態――フィードバック(悪影響)無し。侵食率――予測増加値内を推移。体調――、
《ごめん、寝不足にさせちゃったわね。そんなに繰り返して見てた?》
《多かった。眠ってるあいだ、ずっと断片的に視てるみたいだった》
《……》
 最悪だ。
 こっちに来てから――厳密には来る直前から――“あの夢”を見る頻度が如実に増えていた。
 段階を追って――胎内で洗礼を受けた時、談話室の光景を見せられた時、この領域をうろつき、連中の“繋がり”の内側に入り込む時。
 理由はおおよそ察しがついていた。定義矛盾のせいだ。
 “天野美津”は意図して再構成された人間だ。“日常”を失い、抜け殻のようになった自分を“わたし”として対象化し、今現在の自分と切り離す。目的を設定し、達成することで有用性を段階的に獲得し、明確な価値を自身に付加する。そうすることで、UGNという組織の中で、チルドレンとしての自分の居場所を確保する。
 いわば、勝ち抜くことで己の日常を構成してきた存在だと言っていい。社会が定義する意義、その基準に順応し、適合し、修練することでアイデンティティを担保してきた。
 その在り方が、この場所が提示する価値観と決定的に食い違うのだ。
 何もしなくていい。何の価値も示さなくていい。慈愛が、温もりが、求めれば求めただけ提供される。
 ――そんな居場所があるのなら、他の誰よりも先に、私がその場所に駆け込んでいる。
 訓練を始めたばかりの頃、能力の制御は全く容易ではなかった。むしろ使うことすら困難を極めた。
 制御以前に、力を発現させることを“わたし”が拒絶する。別の道も示されたが、それでは生きられないと“私”の判断が告げていた。
 熱を――温度を司る能力は、あまりにも深く“天野美津”の精神(こころ)と結びついている。それは詰まるところ、感情で暴発するおそれのある銃を胸に抱えて、社会に戻ることに他ならない。
 がむしゃらにトレーニングに臨んだ。フラッシュバックに襲われ、幾度も吐いて、点滴で栄養摂取を余儀なくされ、それでも何度となく胃液と、未制御の能力が体内を荒らすことによる血反吐とを流し捨てながら、“わたし”を上回る“私”を形成した。やがて“わたし”は過去になり、“天野美津”の中心は完全に“私”へと移行した。
 その過程で、逃げ道とそれを正当化する理由とを、幾百回となく考えた。
 チルドレンとなることをやめ、レネゲイド被害により家族を喪った人々のネットワークに頼り、里親を探す。能力に理解があり、封印のために必要な様々な生活上の弊害を受け入れてくれる新しい日常(家族)を求める。
 己の能力をもって燃え尽きる。それか、人間であることをやめる。
 レネゲイドの扱いに習熟するということは、すなわちオーヴァードの生物としての限界と、ジャーム化に至る臨界地点(クリティカル・ポイント)に精通するということだ。
 能力使用の最初の壁を乗り越え、より踏み込んだ熟達過程に踏み込み、チルドレンとして現場を経験するようになった後も、その誘惑は続いた。
 ジャーム化は人間の自我と超自我の境界を消失させる。自身を監視する内なる他者の存在を取り除き、或いは改変し、自我の都合に合わせたものへと不可逆に変質させる。
 それはつまり、己を責め苛む“正しい”現実認識を、欲望に従って歪め、楽になることが出来るという事実を意味する。
 自ら命を絶つという選択肢も魅力的だった。端的に言って、それが最も応報の法に従う行動であるように思われた。
 父も母も、わたしの炎によって死んだ。子供一人のちっぽけな孤独、極言すれば癇癪が、日常を殺した。それを事故だと言うのなら、その罪責感に堪えきれず生を放棄することもまた、幼い子供に許された弱者の権利だろう。そして何より、
 ――同じものを通して死ぬのなら、命が燃え尽きた先で、何と化したものであれ、あの二人にもう一度会えるかもしれない。
 レネゲイドのようなふざけた奇跡があるのであれば、死後の世界だってあっても不思議はない。単なる夢想にしか過ぎないと解っていても、そう想像するのをやめられなかった。
 ……それでも、天野美津は生き延びた。同類であるところのジャームを幾匹となく焼き殺し、父と母と“わたし”の日常の上にその死骸を積み上げて、記憶を凍結した。
 怪物狩りの日々はその助けともなった。個人の歪みは現実社会の歪みだ。怪物化した元人間の数だけ、現実の相貌は点描される。“私”の直観は正しかった。熱量(力)を我が物とする以外に、天野美津が苦しみから、僅かなりとも解放される道は現実には存在しなかった。
《――》
 繋がったまま、美津が束の間の回想に耽るのを、ファーレンハイトはただ黙して受け入れていた。
 彼女とは全てを共有していた。心の傷、弱み、その裏返しとして獲得した自分の能力の限界(ポテンシャル)。
 殆どもう一人の自分のようなものだった。彼女と繋がったまま自身を振り返るのは、水面の上に己の姿を映すような行為だった。
《ミヅも、睡眠不足》
 夢の残滓を、美津が振り払ったのを見届けると、ファーレンがぽつりと打信する(呟く)。
《そうね。まあ、このくらいならエフェクトの調整でどうにか出来る》
 額を付けたまま視線を交わす。万全を保てる、という理解を確かめ合う――両者ともに。この程度、どうということはない。
 たとえ今日が例の“回帰”の日――正念場を迎えるかもしれない日であるとしても。
 互いに一瞥をくれた後、接続を解き、額を離す。近江が起きてこない内に服を着替え――ここに来てから、近江が先に起き出したことはない――ファーレンに起こさせる。
 ブリーフィングを始める頃には、すっかりいつも通りの調子を取り戻している。“天野美津”のあるべき温度に心身共に立ち返っている。
「それじゃ、始めるわよ。段取りの確認――もう一度ね」
 眠気をまだ退けきれない様子の近江を無視(スルー)して、端末をテーブルに設置する。
 定期の暗号化通信――少なくとも今はまだ、無事でいることの証明となる発信。
 一通りのそれを終えてから、繋いだ端末に計画図を周辺情報と共に表示した。
「目的は、“回帰の儀式”、恐らくは“あれ”が信徒を捕食する現場を押さえること。証拠の記録が終わり次第、捕食対象にされる人間を救出。外で待機してる隊長たちと合流するわよ」


シーン16 “回帰”の儀式2

PC1


 時刻は夕、黄昏の頃。沈みかけた太陽が、朱橙色の光を窓ガラス越しに通路へと振りまく。
 独特の色合いに塗られた壁、足下に広がる吸音のカーペットは、傾いた陽射しの中で、酷く有機的に――蠢く生物か、その器官の一部のように――見える。
 格子の影が作る歪んだ十字架の上を、信徒たちの影が幾つも通り過ぎていく。
 皆の行く先は同じ――この屋敷の最奥に当たる空間、礼拝堂。
 一人とて強いられた者はなし――“自由”の原則はここでも維持。しかし皆望んで足を運んでいる。
 理由は恐らく様々――“秘密”を知りたいという好奇心に基づくもの、よりよい“救い”に出会えるかもしれないという期待を抱くもの。親しい者が行くからという迎合により続くもの。……そして、既に一度以上“それ”を目の当たりにして、再びその“奇跡”に接しようとするもの。
 “奇跡”。
 数日をかけて聞き出した、“回帰”の儀式の概要。それを形容する際、誰もが初めに口にした言葉がそれだった。
『他に何て言ったらいいかわからないわ。だってあんな経験、普通に生きていたら絶対に出会うことが出来ないはずのものだもの』
 “回帰”――母への。現実を完全に離れ、この無何有郷(ユートピア)の最も深い場所へと招かれること。
 儀式とはその“招き”が衆人の中行われる事を指すのだと、それを見た者たちは語った。
 “教義のない宗教組織”――そこに『信仰』を発生させる源となった行為。“繋がり”による救済のその先。“信じて仰ぐ”ことによって受けられる、“今ここにはない恩恵”。
『自分から望んで施してもらう、って訳にはいかないんだ。それを本当に必要としている人にだけ、そう“お母様”が判断した限られた子にだけ、その恩恵は与えられる』
 対象とされた信徒は彼女の下に招き寄せられ、抱かれ、そして消え去る。肉体を昇華され、解放された精神はこの空間と一つになる。
『それは――』
 言いかけた近江の言葉を遮って、その信徒は言った。
『違うんだ。だから、誰も言わない。経験すれば解ることだから。あの場に行かない限り、“回帰”の儀式についての本当は決して解らない』
 相手から“繋がり”の匂いが強く滲むのを感じた。臍帯に対する絶対的な信頼と、そして、期待。信じ、仰ぐ、恩寵の到来を待ち望む匂い。
『だから、君もおいでよ。まだ来たばかりだから、選ばれるのは難しいと思うけど、あれを知ることは、きっと君に救いを与えてくれる』
 穏やかに微笑んでそう誘う彼を、近江は正視出来なかった。
『結節点が見えたわね』
 端末に情報を叩き込み、外部へと送信するための報告書類を高速で生成しながら、美津が抑揚薄く言った。
『尻尾を掴んだと言い換えてもいいわ。“マザー”はバイサズよ。信徒を捕食して、確保した高出力でこの領域を維持してる。“幹部”の連中がやってたのは布教兼餌の収集。だから事は秘密裏に行われる必要があった』
 手慣れた使用――指先と有機端子(ファーレンハイト)接続との同時並行。視線はモニター、秒単位で切り替わるアプリケーションへの大道芸のような情報入力。危なげを感じさせない流れるような運指。
『推論プログラム(シビュラ)に引っかかるレベルのペースで“案内”を続けてたのは、“マザー”の捕食スピードと信徒の増加を拮抗させる必要があったから。要するに餌を潤沢に用意し続けるために、リスクを取ることが必要になった。図体を膨らませすぎたのよ』
『わざわざ信徒を餌にする理由は?儀式なんて表沙汰にしないで、裏で捕食すれば誰にも気付かれないで済むんじゃ』
『さあ、そこは分からない。現時点で一番考えられるのは……“マザー”の捕食欲求が信徒に向いてるって可能性かしら。領域内部で人が消える理由付けとして後付けされたか、別の理由か……。まあ、幹部連中の一人でも生きたまま捕まえられれば、その辺は分かるでしょうね』
『信治さんのことも、捕まえなきゃいけない……のかな』
 兄の名を口にした時の或乃の表情を思い出す。
『信治(アレ)は放置、下っ端よ。多分何も知らされてないわ。あんな小物が、相手が化け物だと知った上でベタベタ出来るような心臓持ってると思う?』
『そんな言い方、』
『賭けてもいいわ。良いように使われて調子に乗ってるだけ。潔白だって証明にもなるんだから、あんたとしては喜んでもいいところなんじゃないの?』
『……』
『ともかく、津村とあと何人か、それが実質の組織の核。そいつらは最後まで抵抗するでしょう。どのくらいの戦力を持ってるか知らないけど、今度はバックアップも充実してる。根が深ければ大物釣り、そうでなければ捻り潰して終わり』
 次々切り替わる画面、最も頻繁に最前面に引き出される書面――ちらちらと見える表題、“作戦提案書”。
『次の儀式の時に証拠を取る。本当に信徒が“消える”んだとしたら、記録にはうってつけだわ。恐らく他者を侵害するエフェクトの予備動作を観測出来るはずよ』
 テーブル上に置かれている/ファーレンが内側から取り出した装置、どうやらレネゲイド活性を感知する機能を持つもの。試運転中、持たされた掌サイズの子機には、“異常未感知”を示す緑のランプ。ファーレンが指先を武器の形状に変化させるたび、赤く変色する。
『設置と観測はファー、捕食対象にされた信徒の救助は私とあんた。記録が完了したら即動いて、あんたは信徒の確保、私は“マザー”と取り巻きの妨害。走って抱えて外へ逃げる、やるのはそれだけ。それくらいなら出来るでしょ』
 指がエンターを叩くと、《sending》の進捗バーが表示され、他のウインドウが次々と閉じた。振り返り、美津は近江を見据えた。
『証拠さえ保存できれば、正式に戦闘許可が下りる。隊長と正義バカと合流して、“マザー”と幹部を狩る。いいわね?』
 有無を言わせぬ口調。この間のような問答はもうしない、という意思表示。
 近江も頷かざるを得なかった。この推測が当たっているなら、その犠牲は看過できない。誰かの苦しみの上に成り立っているのなら、この場所は、解体されなくてはならない。
 ただ、一つだけ気になることがあった。
『……“マザー”は、ジャームなのかな』
『どうかしらね。露骨に分かるタイプじゃないのは確かだわ。ジャームじゃない可能性もある。だけど、それが何?』
 近江の表情が気に食わないとばかりに、身体ごと向き直る。
 ――それに視線を合わせることが出来ない。
『ご大層な名前を付けて言い繕ったって、本質は変わらない。オーヴァードだろうとジャームだろうと、“マザー”は人を食い殺すことでこの場所を作ってる』
 恐らく事実だと、近江も思う。
『この理想は破綻してる。自分の所業で、自分の願いと反対の事態を招いてる』
 それも事実だと、そう思う。
 たった一つの命を持たされて、世界の何処かに生まれ落ちて。選ぶ暇(いとま)もさしてないままに、歩けと命じられる。後戻りは容易ではなくて、未知と危険と、そしていつの間にか纏わり付いた重荷と疲労が、自分の人生に渓谷を築いている。
『あんた言ったわよね、“生きてる”って。自分の人生を投げ捨てたくて、楽になりたくて、でも死にたくない、そんな連中が逃げてきたのがこの場所よ。誰より生きていたい連中が揃ってるのがここ』
 そうだ、その通りだ。
 一つの道を棄てるまでに、どれだけの逡巡があっただろう。
 棄ててしまうことで生まれる傷のことを、誰かに背負わせる重荷のことを、どれほど恐れ、罪に思っただろう。
 棄ててしまった痛みと空白に、どれだけの夜昼を食い荒らされたことだろう。
 その全てを経由して、彼らはここで生きている。みじめに、けれど平穏に、傷を分かち合って生きている。
『ここでの殺しは本当に全てを奪う。たった一つ残った命という財産を取り上げる。それを残酷と言わないなら、悪と呼ばないなら、何だっていうの?』
 その声には明確な怒りが滲んでいた。
 静かな言葉の底に沈殿した熱が、水面(みなも)を音もなく沸騰させていた。
 近江はただ顔を伏せた。
 全てが正しい。
 でも。
「……」
 今自分が触れている一つのもののことを、何と名付けて伝えればいいのか解らなかった。
 その沈黙を美津は待たなかった。
『前列に陣取って合図を待ちなさい。……自分の体質に感謝することね。嬲り殺される危険も、無辜の誰かを撃ち殺すかも知れないリスクを負うこともない。ただ逃げるだけでいいんだから』
 これまでのどの時よりも冷え切った声で言い残して、美津は部屋を出た。
 それきり、夕刻が近づいても戻ってくることはなかった。

 近づくにつれ密度の上がる人の波の中を、縫うように泳ぐ。
 前方列――恐らくマザーが信徒(エサ)を招くだろう壇上、そのすぐ近くへ座るために、随分と早めに出た筈なのだが、予想よりも人の数が多い。
 比例して濃くなる匂い。自分の輪郭が曖昧に蝕まれる感覚が強くなり、気を抜くと足取りも危うくなりそうだ。
 それでも歩く。談話室との分岐路を越える頃には、はっきりと人だかりと言えるほどの人々が通路を埋めていた。
 礼拝堂の扉はまだ開いていない。既に席が埋まっているという心配は無用なようだったが、むせかえるような内粘膜の匂いはかつてないほど。
「(まるで、スープか何かの一部になったみたいだ)」
 外界からの侵食に肉体が反発しているのか、身体の内側が奇妙な具合に熱い。痺れるような、膨張するような。
 今すぐここから離れたいという思いが湧く。が、
「(だめだ。何のために自分がここに来てるのかを思い出せ)」
 嗅覚を念頭から追い出そうと努める。
 少しでも気を紛らわせようと、視覚に注意を振った。見覚えのある顔がないか探す。
 信治――いない。或乃も。らしくもなく、塞ぎ込むような仏頂面を隠し切れていない美津の姿だけが見つかった。他、面識のある相手は幾人かこの場に集まってきていたが、リスト内に参考人候補として挙げられた顔ぶれは見えない。幹部と思しき面々は、恐らく既に礼拝堂内にいるのだろう。
 やがて、重い扉の、しかし油が差され滑らかに開く音が、集群を静まりかえらせた。
 薄く明かりの灯された礼拝堂の暗がりが、開閉の向こうに見出される。
「……お入り下さい」
 内開きとなった扉の傍らに立つのは或乃。暗さのせいか、その表情は翳っているように見える。
 こちらを見ることなく、待つ人々に向けて仕草で礼拝堂の奥を指し示す。
 誰ともなく、扉の境界をくぐって堂へと立ち入り始める。その流れの中に、近江も続く。
 と、通過の瞬間、
「――――」
 思わず立ち止まりそうになり、慌てて歩を取り繕った。一瞬吹き飛びかけた前進のリズムにどうにか乗り直す。
「(――匂いが、変わった)」
 初めは一切の匂いが消えたように感じた。生々しく脈打ち、息を吐き出していた活性粘膜が、そこでぷつりと途切れ――代わりに何か、濾過を担う膜か何かの内側を、場に入(い)ることでくぐり抜けたかのように。
 しかし実際は違った。礼拝堂の中にも一つのはっきりとした匂いが漂っていた。
 初めて“それ”と遭遇した時と違い、源(もと)を見つけるまではすぐだった。
 鮮血を織り込んだように鮮やかな朱色の(レッド)カーペットの向こう、石と金属で作られた書見台の傍らに立つ女――“マザー”。
 誰とも混じっていない彼女一人の匂いが空間に満ちている。
 それと共に、違和感。何かが自分の中から失われたような空洞、空虚の発生。
 その感覚は、近江一人ではなく訪れた他の信徒たちにも生起していたようだった。
 前方を行く者の中にも、怪訝な、或いは不安げな様子で、周囲を見回す何人かの姿が見える。
 動じていないのは全て古株の信徒――“この場”を経験済みと思しき者たち。
「(切り離された……?)」
 そう疑って、自分の内側の“繋がり”に意識を向ける。
「(いや……まだ、ある)」
 微かながら、そこに臍帯の手触りが感じ取れた。どうやら機能を停止し、内容物が引き上げられただけで、“管”自体はまだ繋がっているらしい。
 前を歩く者たちがまちまちに着席していく――位置はばらばら。まるで何処に座しても、経験されることの質は一切変わらないとでもいうかのように。
 おかげで最前列近くに座ることは容易かった。礼拝堂の中央を抜く通路の傍。ここなら事が起きた時、すぐに駆けだして救助に移ることが出来る。
「(天野たちは何処だろう)」
 目立たない程度を意識しながら、周囲を見回す。未だ流れ込み続けている信徒に隠れてしまっているのか、或いは強襲のための隠密段階に入っているのか、何処にも見当たらない。
 代わりに、マザーの背後に控える、一般信徒とは異なる衣服を纏った男女の姿が目に付いた。事前の聞き取りで当たりを付けていた人物たちの内、五、六人ほどがそこにいる。
 末席には好井信治の姿もあった。その表情ははっきりと誇らしげで、衒いがない。
「……」
 ポケットの中で未だ安全値(グリーン)を示している測定子機を握りしめながら、彼が無用な被害に巻き込まれないことを祈った。彼自身のためにも、彼の妹のためにも。
 室内に見知った匂いが漂い始めていた。“個人”の――通常の、ひしめく捕食対象(エサ)、人肉の匂い。供給から離れたことで、信徒たちが未接続(スタンドアローン)に近い状態となったためだろう。一つの集合体だったものが、個別の人々に戻っていく。
「(どういうことなんだ……?)」
 予想と正反対の状況。“マザー”は接続した信徒を吸収捕食するものだと考えていた。
 しかし実際には、むしろ繋がりは閉栓され、今この場には、彼女という一人と、信徒たちが非接続に向き合うという対面空間が生じている。
 ――俄(にわか)に嫌な予感がした。
「(このことを天野は、)」
 織り込んでいるのか、そうでないのか。
 やるべきことは変わらない。仕掛けるイニシアチブは彼女にあり、彼女が動いたなら、近江もまた動く。それでいいと分かっているはずなのに、脳裏に唐突に湧き上がった不明瞭な感覚が、状況を糾(ただ)せと叫び声を上げる。
 扉の前で感じた、血の沸くような感覚が再来しようとしていた。
「(信徒たちの匂いのせい、じゃない……!?)」
 なりふり構わず美津を見つけるべきだと本能が告げていた。さもなければお前にとって望ましくないことが起こると。
 心臓が激しく脈打っている。思わず抑え付けるように触れる。
 信徒たちは皆着席していた。構わずに立ち上がろうとした。しかし遅かった。
 ――き、ぃぃぃ、ん。
「っ……!!」
 鐘の音のような、硝子同士が擦れ合うような音、或いは衝撃が、全身を見舞った。
「(な、んだ、これっ……!?)」
 身体が動かない。指の一本、細胞の一つに至るまでが、訪れた波濤の力によって活動を封じられてしまったかのようだった。
 一方で知覚だけは未だ機能している。否、機能しすぎている。
 聴覚――近江の肉体の内側で起こっている激烈な変化など知らぬげに、驚くほど静まりかえった空間内の無音を聞き取っている。
 触覚――今し方自身を通り過ぎた波が音のように後列、最後尾までを飲み込んだのを感触している。
 嗅覚――それが“彼女”の匂いを孕むものであることを察知している。
 すなわちこれは、“マザー”のエフェクトによる何らかの干渉。
「(なのにっ……!)」
 手に握ったランプは赤を示さない。むしろ“安全(グリーン)”の色合いを強く示している。
 何かの異常が起きている――或いは、起ころうとしているのは間違いなかった。
「(くそっ、天野っ……!)」
 せめて自分が動けないことだけでも伝えなくてはならない。
 しかしどれだけ強く意志を込めたところで、身体は一向に動き出しそうになかった。
 かろうじて、視覚――瞳が映し出している光景に、注意、意識を向けることが出来る程度だった。
 視線の先――立つのは聖母。薄明かりの中、白く浮き上がる細身の女の、十重二十重に衣装を纏った身体。
 “マザー”。
 “母”。
 “お母様”。
 “母上”。
 “お母さん”。
 過加速する感覚の中、彼女を呼ぶ無数の声が脳裏を駆け抜けていく。
 注意を向ける暇(いとま)も余裕もない。それでも、これだけは認識出来た。
 “接続”――本当の意味での“繋がり”の時間が、これから始まるのだと。
 ――ど、
 理解するかしないかの内に、先触れに続く本波が来た。
 ――くん。
「(う、あぁぁぁぁっ――!!)」
 存在、精髄、その全てを粟立たせるような波を受けて、近江は声も出せないままに悶絶した。
 自分の内側で荒れ狂うその感覚に加えて、“接続”しつつある信徒たちの総毛立つような感情の荒波にも呑まれた。
「(天野――)」
 去り際の頑なな痛みを抱えた背中が脳裏をよぎる。予感の意味をようやく悟る。
 俺なんかより、まずいのは天野だ。
「(助けなくちゃ――)」
 立ち上がろうと精神を振り絞る。それでも身体は動いてくれなかった。
 小刻みに震える手の中でランプの緑が狂おしいほど明るく明滅していた。
 匂いがする。これ以上ないほどに強く鼻腔を刺激する。
 薫風が、
 香る。
 ……そして、その時間が始まった。


シーン17 “回帰”の儀式3

 ――景色を視ている。
 一つの、景色を視ている。情景を、感触している。
 誰かの瞳が映した経験(世界)を見ている。
 誰かの肌が感じ取った刺激(世界)に触れている。
 誰かの舌が味わった辛酸(世界)を舐めている。
 誰かの耳が聞いた現実(世界)を聴いている。
 誰かの鼻腔に満ちた苦痛(世界)の匂いを感じている。
 暗闇を歩いている。粘性を持った泥のごとく、全身に纏わり付く暗闇の中を、いつかもし振り切れる時が来たとしても、きっと永生その気味悪さを忘れ得ないだろう、不快の只中を泳いでいる。
 昼でも夜でも変わらない。いつも自分(わたし)の周りは暗がりに押し包まれている。
 差し伸べられる手は全て、沼の内側から来た略奪の先鋒のように見えた。そして実際にその通りだった。
 家も持たず、庇護者も持たず、力も持たず、ただ命しかないわたしは、何処へ流れても糧食(エサ)でしかなかった。何らかの形で常に必ず何かを占められ、削り取られ、辱められた。
 泥濘の中を生き延びる過程で幾度も罪を犯した。それを恥じる余裕も暇(いとま)もなかった。命を投げ捨てることさえ、その苦しみの中ではあまりにも労苦を必要とする所作だった。望まず、望みようもなく、ただ粘ついたぬかるみの中を、うっすらとした他人の侵食的な熱の中を生きた。
 しかしやがて光に出会った。ここでなら、このひととなら、わたしは生きられる。“生きたい”という自分の最奥に揺蕩う願いを、受け止めて歩くことができる。
 光はいつしか果実としてわたしの身に宿った。たとえようもなく嬉しかった。だってそれは、わたしというどうしようもなかった屑のような命が、“生きていい”と思えるような意味を与えられた瞬間だったから。
 ……けれど、光は消えてしまった。結実は、それが凝るべき場所と共に、わたしの内側から永遠に失われてしまった。
 それは罰によるものだった。殺到しては何かを科し、奪い去って行く、あの泥濘がわたしに付けた傷、わたし自身が自らに付けた傷の名残り、その些細な余韻が招いた落果だった。
 応報を越えた応報。罪は罪、罰は罰。受け入れる覚悟はあった。けれど、よりによって。受け入れる覚悟すら、そのいわれすら理解することもできないまま消えてしまったその刑罰(命)の重さを、わたしは受け止めきることができなかった。
 わたしは壊れた。からっぽになってしまった身体の空虚に内側から押し潰された。わたしは、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、それでも逃げ切れずに、わたしという輪郭を失った。
 それでも、心臓は動いていた。血は身体を巡り、肺腑は呼吸を続けていた。
 そんなふうになってしまっても、わたしの深奥はまだ、その願いを口にしていた。
 “生きていたい”
 本当は、すべてが上手くいって、望んだ通りのものを手にしたかった。
 そこまでではなくても、ごく僅かだけでも、見出した暖かさを永遠のものにしたかった。
 その永遠が叶わなくても、せめてひととき、わたしというちっぽけな命ひとつが果てるまで、愛した暖かさに触れていたかった。
 希生(きしょう)の念は苦痛を生成する。心は眩きを仰ぎ、温もりを求めるから。
 だから、
 “生きていたい”
 その原始の声が反響するたびに、罪苦が生起し、全身を内から、防ぎようもなく責め苛む。
 でも、だけれど、
 “生きていたい”
 “生きていたい”
 そう、繰り返すのだ。肉が、心が、ずっと、ずっと。
 ずっと、ずっと。
 ずっと、ずっと。
 ずっと、ずっと。
 ずっと、ずっと。
 ……だから、わたしは、生きることを選んだ。
 取り返しのつかないものをなくして。消えない傷を抱えて。そんな、わたしのせいでなくなってしまったものを思えば些細に過ぎる傷すらもなかったことにできない自分の醜さを抱えて。
 色々なものを見た。
 色々なものに触れた。
 色々なものに関わり、矮小な自分にできる限りのことを、望みの向くままに試みた。
 全てには限りがあった。卑しいわたしにはなおのこと。
 それでも二度と“望まない”わたしに戻りたくはなかった。わたしは、だって、こんなにも醜悪で脆弱なわたしは、“それでも、生きていたい”と、願ったのだから。
 ――景色(世界)を視ている。
 一つの、景色(人生)を視ている。
 視ている、“わたし”がいる。“わたし”が、生に辿り着いた「わたし(そのひと)」の現在(いま)を見つめている
 そのひとの背中は傷だらけだった。そのひとの背中は重荷だらけだった。
 そのひとの手には抱えられる限りのものが抱えられていた。
 そのひとの足は震えながら前に進もうとしていた。
 そのひとの身体は至る所から血を噴き出し続けていた。
 それでもそのひとのおもては穏やかだった。
 だってそのひとが、その弱々しい、細く生白い腕でかき抱いて、暗闇に落ちぬよう抱え上げているものは、そのものをそうして守れていることは、紛れもなくそのひとにとっての救いだったから。
 「わたし」の光(子)。もう二度と戻らない「わたし」の光(子)。慈しむことも懺悔することも叶わない、失われてしまった大切な命(もの)。
 けれど、他の誰かの命(それ)を慈しむことならできるから。そうすることで、「わたし」はほんの少しの、欺瞞に満ちた、けれど確かに形を持った、救いを得ることができるから。
 罪に塗れた身体で、微かにでも。“生きていたい”という望みに沿うことができるから――。

 かちゃん。
 握っていた拳銃を、気付けば取り落としていた。
 頬を涙が伝っていた。“わたし”が“私”と入れ替わって以来、初めての涙だった。
 脳裏で無意味なカウントが続いている。構築した成すべき動作の指標となる、時の進みを正確に測る論理回路。常に必要な温度に管理され、どのような環境でも変わらない価値(スペック)を発揮出来るように鍛え上げてきたそれが、虚しく空転している。
 “美津”
 状況を読み、然るべき行動を起こすべき局面で、そのいずれも遂行しないまま、名を呼ぶ声に耳を傾けていた。
 “美津”
 それが誰の声なのか、今なら分かった。
 そのひとがどれほどのエゴで、わがままで、私を救おうとしてくれているのか分かった。
 そしてそのわがままが、どれだけ“天野美津”にとって救いになってしまっているかを理解した。
「(銃を拾え)」
 “私”が命令する。
「(拾え、撃て、変身しろ)」
 “私”が大声を上げる。
 しかし、“天野美津”は動かない。動かすことが出来ない。
 ――身体が、暖かい。
 久しく忘れていた感覚。
 頑なに拒み、精神の防壁を築いて防いでいた、恩寵の流入。
 他者からの、愛情の流入。
 その感覚を思い出していた。思い出してしまっていた。
「(拾え)」
 “私”が叫ぶ。
「(拾え、動け、戦え)」
 “私”が絶叫する。
 けれど、もう駄目だ。
 ――だめだ。
 一人の少年が席を立ち、歩いて行く。その背中を呆然と見つめている。
 いつの間にか立ち上がっていた、他の信徒たちと共に。
 少年の中に“わたし”がいるのを感じている。“わたし”が望みを果たそうとしているのを感じている。
 あれは、エゴだ。欲望を叶えるために光に向かっていく歩みだ。
 “マザー”が少年を見つめる。悲痛の面持ちで。
 それは、そうだ。そ(子)の欲望の成就は彼女にとって、喜びであると同時に、それ以上の悲しみであるのだから。
 悲しみ――生ある子を一人喪う悲しみ。
「僕を、貴女に充てて下さい」
 少年が仰ぎ見て言った。
「僕を、貴女の一部にして下さい」
「貴方も、もう、それを望むのね」
 “マザー”が悼む者のおもてで静かに言う。
 ああ、そうだ。
「そうです。僕はそれを望みます。望む権利があると分かったから」
 わたしは、
「僕は、もう、貴女に守られるだけでは助からない」
 わたしは、
「僕は、救いなしには僕ではいられない」
 わたしは、
「僕は、もう貴女に成る以外に救われるすべがない」
 少年は躊躇なく、むしろようやく選べたという満足げな表情で、穏やかに、そう言い切った。
「わかりました」
 “マザー”がおもてを上げ、厚く纏った衣装(いそう)をするりとはだける。
 腰元まで、花が開くように露わになった身体。
 その胸元――乳房の間から下腹部にかけて、遠目にもはっきりと分かる深い古傷がある。
 その淵に静かに紅が滲む。
「貴方の傷を、私は私のものにします。貴方の存在を、私はこの場所へと還元します」
 少年の唇が傷跡に触れる。血滴を再び飲み下す。
「僕の傷を、貴女の傷に。僕の存在を、貴女の腕(かいな)に、歩みに、流れる血潮に」
 不遜にも、わがままにも、必死にも、
「この場に集う全ての人たちに奉じる、場(もの)の一部に」
 どこか若草を思わせる風が、春の陽にくすんだ翠玉(エメラルド)の緑光と共に奔(はし)り抜けた。
 光の直中で、少年の輪郭が霧散していく。空間に粒子となって散り、その存在が喪われていく――別のモノへと換えられていく。
 全てが終わった時、場には再び“繋がり”が降り来たっていた。そこにはつい先ほどまで眼前に佇んでいた少年の気配が加わっていた。
 言葉は何もなかった。その場にいる皆が仕儀の終結を理解し、自ずよりその場を立ち去った。
 “マザー”は最後までそこに佇み、喪失された少年のいた場所を見つめていたが、やがてゆっくりと背を翻すと、幹部たちと共に奥へと消えていった。
 人影が消えた礼拝堂には、気を失った近江と、呆然と佇む美津だけが残された。


シーン18 Hearts Cry1

PC1


「――」
 何処かから自分を呼ぶ声が聞こえる。
「――ゆ――ん、――さん」
 遅れて知覚される、遠慮がちに自分に触れている熱の感触。
「有、さん。大丈夫ですか……?」
「ん……」
 鼻腔を刺激する匂い――全体(領域)の匂いが薄く、個人と全体、両方が入り交じった独特の気配のそれ。美津と自分、ファーレンを除けばこの場所では珍しい、人独りに似た。
 目を開く。
「或乃……?」
 薄暗がりの中、こちらを見下ろしている少女の姿――記憶と符号する。
 好井或乃。先ほど礼拝堂に入ってくる際に見た、儀式用らしき正装そのままの――、
「っ!」
 跳ね起きながら周囲の状況を確認する。反射的に起動する第六感――五感を高次の統括の下で制御・情報収集する、“怪物”になってから身体が知らず身につけるようになった知覚。
 探知にかかるもの――なし。何の特別さもない、ただの静寂、無人、無臭――もとい、普段通りに漂う“領域”の匂い。
 殆ど答えは分かりきっているにも関わらず、周囲を見回す。空っぽの礼拝堂――誰の姿も見えない。美津も、ファーレンも、幹部も、そして“マザー”も。堂の最前、書見台の隣には誰の影もない。
 ただ目の前に、随分と驚かされた様子の或乃がいるだけ。
 前屈みになった或乃との距離はすぐ傍で、向こうからすれば頭をぶつけそうな勢いで顔と身体が近づいてきたに等しい。
「あ……ごめん」
 他に出てくる言葉もなく謝った。
 辺りはしんと静まりかえっていて、先ほど起きた出来事の名残一つない。
 全身を走った危機感、焦燥感が、それでようやく薄れていく――行き場を失いながら。
 それを何と取ったか、或乃は気にしていないと示すように首を振る。
「いえ、大丈夫です。時折おられるんです。“繋がり”を経験して、混乱したりとか、具合が悪くなってしまう方」
 ぽつぽつとした口調。二人で話すには広すぎる空間に吸い込まれるような声音。
「わたし、ここの戸締まりをする役で……最後の見回りを兼ねているんです。そしたら、有さんがいたものですから。お加減は、差し支えないですか?」
「……うん。もう、大丈夫」
 改めて、自分の内側に意識を向ける。多少記憶が混濁しているが、異常の類は感じられない。
 匂いの不快感も随分と薄らいで、体調は良い、と言っても差し支えないくらいだ。
 こうしてすぐ近くに人肉(ヒト)の匂いをさせている或乃がいても、さして食欲が湧き上がってこない程度には。
「平気、みたいだ。……変な体勢でいたせいか、身体だけちょっと痛いけど」
「そうですか」
 ほっとした顔の或乃。……確かに或乃だ。あの儀式を経たあとでも、変わらず。
 臍帯の接続下にはあるが、一人の人間としてそこに存在している。
 そのはっきりとした、他と自を隔てて存在している一つの輪郭を通して、先ほどの記憶が甦ってくる。
 “繋がり”。慄くほど深い意識共有を通して脳裏を過っていった、大量の情報。“マザー”の傷と、感情、エゴ、理想。懊悩と苦痛で満ちた人間一人の半生、その一瞬間での伝達。
 そして、
「あの、子は……」
 自ずから出で、光となって散っていく少年の姿を見た気がする。半ば答えを予想しながらも、尋ねる。
「この場所と一つになりました。……“お母様”と」
「……そっか」
 その少年の匂い、息づかいが、ごく薄くではあるが、空間に溶けているような気配がする。恐らく、捕食の直後だからだろう。もうしばらく経てば、恐らく完全に“マザー”の内側に溶け、その存在は残滓さえもなかったことになる。
 止められなかった。一人の人間が食われ、この世界からいなくなるのを、阻止できなかった。こちらの目論みは失敗したのだ。
 この静寂がそれを裏付けている。何も起こらなかった――儀式は滞りなく進行し、そして終了した。
 掌に握り込んでいたランプも、どうやら役目を果たせず破損したらしい。もはや感知の機能も正常には働いていないようで、弱々しい緑の点滅を繰り返すばかりとなっている。
 そうなると、気になることはたった一つだけ。
「あま……美津のこと、何処かで見た?」
 曖昧に頷く。
「はい。最後の方に、ここから出て行くのを見ました。私の知らない、小さな女の子と一緒だったと思います」
 恐らくファーレンだろう。ということは、美津もファーレンも一先ずは無事ということだ。
 ようやく、肩の力が抜ける。どうやら最悪の展開だけは免れたらしい。だからと言って、何かが救われた訳では全くないが。
 ぼんやりと、心の隅でわだかまっていた疑念――それがそのまま、現実のものとなってしまった。すなわち、
《もしこの場所が、心から維持を望んだ犠牲によって成り立っているのだとしたら?》
 上書きの生、その安寧を上回る更なる救い。己の傷、消しきれない痛みを昇華するための、最後の、そして最高の選択肢。……“挺身”。
 この場所を愛しているほど、この場所に価値を認めるほど、その場のために自分自身を捧げることははっきりとした意義を持つ。正しいと感じたものに、これだけはきっと大切だと確信したものに、文字通り命を捧げることで、罪から離れ、救いそのものに近づく。
『自分から望んで施してもらう、って訳にはいかないんだ』。
 思い出される言葉。
『それを本当に必要としている人にだけ』、『その恩恵は与えられる』。
 罪を抱えていること。消せない痛みを抱えて、ここまで逃げてきてなお、贖罪の機会を求めてやまないこと。それが恐らく“資格”なのだろう。深い傷の持ち主を食べることで、“マザー”はこの領域を維持している。
「……」
 出口の方を見やる。美津がどうしているか心配だった。あの頑なな態度の中に、危うい匂いを感じていた。ファーレンが付いているのなら、自分が行ったところで、出来ることはないかもしれないが……。
「……あ、あの」
 思考を中断したのは、おずおずとかけられた言葉だった。
 振り返ると、何処か思い詰めた表情の或乃が近江を見上げていた。
「この、あと……良かったら少し、お話を、しませんか」
 辿々しく、言葉を探すようにして言うその面(おもて)。切実の色――何か重苦しいものを吐き出そうとするような。
 六感――形容しづらい感覚の組み合わせが、予感のようなものを受け取る。機を探していたもの。少女の中で出口を求めて揺らいでいた感情。それが今、何かに勢いづけられて、形を成そうとしている。
 このタイミングを逃せば、またその感情は何処かにしまい込まれ、本人が望むとに関わらず、次の巡り合わせが訪れる時まで、表に現れることはないだろう。
 最後に見た美津の姿を思い出す。このまま或乃に付き合えば、彼女の下へ行くのは後回しになる。役に立つとしても、そうでなくても、容態を知りたい思いはある。
 ……けれど。
「分かった。じゃあ、何処か、場所を移そうか」
 出口の向こう――一刻も早く部屋に戻りたい感情を押し殺して、或乃に頷いてみせる。
 ……この少女もまた、助けを必要としているように見えたのだ。もしかしたら、傍に相棒(ファーレン)が付いている美津以上に。
 或乃の内側で小さく張り詰めるようだった緊張の匂いが、ふっと緩んだ。
「ありがとうございます。あの、じゃあ、ここの後片付け、早く終えてしまいますね」
 そう言うと、半ば小走りに近い早歩きで灯りと扉に向かっていく。
「(ごめん、天野)」
 もう一度、出口のその向こうへ目を向けて、心の中で呟いた。
 全ての灯りが吹き消され、真っ暗になった部屋を出て、通路を歩く。窓から差し込む外界の光は、斜陽がもたらす橙のそれから、昇り始めた月の照らす銀へと色を変えていた。


シーン19 Hearts Cry2

PC1


「あの儀式は元々は、“繋がり”の儀式と呼ばれていたんです」
 半月が照らす夜の庭。
 木立の先、小径を抜けて、ベンチへと向かいながら、或乃がそう切り出した。
「“お母様”の傷と、その望むところと、理想を、言葉以上のもので共有する。お母様を介して、皆で一つに繋がることで、それぞれの傷の痛みを心で分かち合う。分かち合って、お互いがここにいていいことを再確認する。そういう儀式だったんです」
 そよぐ風の柔らかさは変わらない。薄布でも凍えることなく、また歩き続けても、暑さを感じることもない。領域が形作るユートピアの完璧なありよう。
「でもいつの間にか、あの“回帰”が“繋がり”と一緒に執り行われるようになりました。ここで救われることに耐えきれなくなった人たちが、お母様の一部になることを望むようになったんです」
 天然の絨毯のように柔らかい、土を踏みしめて歩く。或乃の足取りは、記憶を一つ一つ、歩と共に刻むようにゆっくりとしている。近江もそれに合わせ歩く。
「お母様はそれを受け入れました。信徒の中でも、それを次第に望む方が増えていきました。その結果だと思います。たくさんの方が、いなくなりました。知り合いだった方も、そうでなかった方も、昔からいた方も、……私の友達だった方も」
 最後の言葉に絞り出すような色が滲んだ。礼拝堂で感じた感情の匂いが、再び鼻腔を刺激する。
「……有さんは、あの儀式のこと、どう思われましたか?」
 足下を見つめながら、或乃が言った。
 ぽつりと、何のことなく呟くようでいて、何処か、不確かな足場の在処を求めるような、切羽詰まった問いかけ。
 大切な問いだと思った。少なくとも、この少女にとっては、とても。
 簡単に一言で答えてしまうには重すぎる。それほどの何かが、ここにはかかっている。
「……」
 黙して、“あの瞬間”に意識と感覚を通り抜けていった様々なもののことを思った。
 あの場に横溢していた、孤独と、困惑と、寂寥と、そして切実の匂い。一と多が向き合い、相互に精神の傷を晒すための場としての匂い。曝け出された“マザー”の傷――それに呼応して場に溢れた傷の記憶の奔流。己の生の意志を確認する人々。
 共感の念が深く湧く。その思いは確かに近江の中にもあった。
 形はそれぞれ違っても、そこで経験されたものは同じだ。痛み、挫折、疲労、重荷、それでも消えてくれない、生への渇望。その渇望が容認されるような自分ではないと知って、他ならぬ自分の心がそれを容認しないと知って、それでもなお生きたいと願ってしまう、精神の屈託。そしてその屈折の内から、自然と湧き上がる欲望――赦せない罪に対する贖罪、これこそ資するべきと信じられる信念との同一化、それらを一挙に成す答えとしての奉身。
 それは恐らく、完成された答えだ。レネゲイドという、バイサズという力の在り方が現実のものにした、一つの無謬の円環、正答、落伍者が求めた理想郷。
 ……だけど。その筈なのだけれど。
「……俺は、間違ってると思った」
 理由ははっきりとは分からない。ただ、近江有という存在を構成している何かが、その論理を否定していた。その無矛盾を受け入れられない引っかかりが、心の中に棘のように知覚されていた。
 正直に口にしたのは殆ど勘からだった。彼女に対して誠実であるべきだと、心の何処かが告げていた。
「犠牲になることで皆が救われる。皆が救われることで、自分を赦せる。そうすることでしか自分の生きたい気持ちを認められない人がいる。それは、そうだと思う。でも……」
 死んでしまったら。例え捧げた先で幾ばくかの自分の欠片が残るとしても、そうなったものこそが、洗浄された、認容できる自分なのだとしても。それは。
「それは、本当に救いになるのかな」
 そこに命はない。生きたかった命は砕けてしまっている。
「それでいいと、少しの迷いもなしに思う人もいるかもしれない。でも、そういう人だけだとは、俺は思わない」
 いつしか、二人はベンチに辿り着いていた。
 二人とも腰掛けることなく、木々の作るその半球の中央で歩を止めた。
「そのことを、この場所は忘れているように思う。……上手く言葉に出来ないけど、それは絶対に正しいことじゃないと思うんだ」
「例え、それでたくさんの人が救われるとしてもですか?それを忘れてしまうことを、誰も気にしないと、むしろそんな現実はここでは忘れてしまうべきだと、そう説かれたとしてもですか?」
「……ここは、現実の一部だよ。非現実なんかじゃ、ない」
 気付くと、或乃の目が近江の横顔をじっと見つめていた。
 その瞳が揺れている。何かの決断に迷って。
「有さんは、変わってますね」
 少しあって、それだけ言った。
「今までいらっしゃった何人かの人に、同じ事をお尋ねしました。でも、そんな風に答えて下さったのは有さんが初めてです」
 言葉に反して、口調はむしろ分かっていたというような落ち着きを湛えていた。
 準備をしているのだと分かった。予期されていた答え。それに対して、用意していた言葉を送り出すための。
「私も、同じふうに思います。有さんと。兄さんや、皆の前では、おくびにも出せないですけど」
 数歩歩いて、前に出て。ゆっくりと、近江の方を振り返り、向き合う。
 そして言った。
「ねえ、有さん。有さんはもしかして、ここを調べるために、外から来た人じゃないですか?」
 予想もしない言葉に、抑える間もなく動揺した。
 まったくの不意打ち。――否、或いは半分想定していたかもしれない問いかけ。
 だからこそ響いた。“打算”――もしその言葉に込められていた意図がそれなら、隠し通す覚悟を半ばしていた。
 けれど違った。その声音に滲んでいたのは、恐れ、不安。そして、縋るような期待。
「一目見たときに、思ったんです。他の方々とは、何処かが違う人だって。それが何なのか、今でも分からないですけれど。でも、私の気にしていることと、きっと関係があるって、どうしてか思ったんです」
 一言一言を聞く度に、ピースが嵌まっていく。
 彼女の匂いが印象に付いた理由。彼女との会話が妙に記憶に残った理由。彼女の存在、位置と状態が気にかかった理由。
 六感が喚起していたもの――共鳴の感覚。そして、警戒の必要性。
「ずっと有さんのことを見ていました。ここでお会いする前から、様子を窺っていました。それで、お話してみて、もしかしたらそうなのかなって、そんな気持ちになったんです」
 だから話しかけた。だから素性を探った。共通項――或いは、気にかかった理由を探して。
「もしも違ったらごめんなさい。忘れてください」
 露もそう思っていないような口調で前置いて、
「でも、もし私の推量が間違っていないのでしたら」
 顔を上げて、近江を見つめる。そして言った。
「私、有さんにお伝えしたいことがあります」


シーン20 Hearts Cry3

PC5


 扉を開ける前に、一度、小さくノックをした。
 返事はなく、取っ手に手をかけると、施錠の手応え。
 開けて入ると、室内は真っ暗で。
 ぼんやりとした月明かりの中で、窓辺から外を見つめる美津と、傍に寄り添うファーレンハイトがいた。
「……ただいま」
 ファーレンハイトが軽く目を向けたが、美津は月を見上げたまま、こちらを振り返ることもない。瞳は茫洋として、儀式の前よりも強く、臍帯の匂いが香っている。
「……遅かったのね」
 そのままの姿勢で口元だけを動かして、美津が言った。
「ごめん」
 それだけ口にした。他に言いようもなかった。
「隊長たちには撤退してもらったわ」
 ぽつりと呟くように。
「こっちの想定を上回る正方向(プラス)の出力をたたき出されて、観測機が壊された。証拠の採取に失敗して、物証不十分。捜査関係者である私たちの証言だけでは決め手にならない。死者についてだけ報告した。……警察関係者の息子だったそうよ」
 霞みゆく意識の中で聞いた少年の声、その横顔のことを思い出す。
「私たちは、このまま継続して調査。証拠探しと、意図探り。それと、弱点探しを進める」
 抑揚のない声で言う。その声の平坦さの中に、傷の匂いを感じる。
 それで話は終わり、と言わんばかりの面(おもて)でいる彼女を前に、黙っていられなかった。
「天野」
「……」
「天野」
 こちらを見ずに、顔を伏せる。
「助けにいけなくて、ごめん」
 重い沈黙が満ちる。触れたことで、傷口の匂いが室内に流れ出す。
 “わたし”に対する“私”の敗北。“マザー”の背中に、傷口に、生の在り方に、抱いてしまった憧憬の念。
 論理(ロジック)を完膚なきまでに破壊する感情の実体験(リアル)。
「私の落ち度よ。心構えが足りなかった」
 そう紡ぐ言葉は空虚だ。だって、“天野美津”はその感情を認めないからこそ“天野美津”たり得ていたのだから。
 だからこそ近江に食ってかかった。性急に事を片付けようとした。
 それを止められるのは近江だけだった。近江だけが、被食の欲望という抜け道を嗅ぎつけていた。美津に突きつけることが出来得た。
「俺がもっと早く気付いていたら、やりようがあったかもしれない」
「仮定の話よ。私はあんたの話を精査しなかった。増員も、交代の必要も検討しなかった」
「けど、俺がもっと噛み付いてたら、もしかしたら」
「やめて!」
 叫び声が静かな部屋に響いた。
「……」
「もし……そうしてたら。きっと私は、あんたを外してた。どうあっても、これは私の責任なの。私の失敗が、人を一人死なせたの」
 それどころか。
 ――『あれは、“わたし”だ』。
「……お願い。しばらく、一人にさせて」
 そう言ったきり、伏せられた面は持ち上げられることはなかった。
 ファーレンハイトが傍に寄り添う。何も言わずに。
 頷くことしか出来ずに、近江は口を噤んだ。ポケットの観測子機を机上、親機の隣に置くと、上着を脱ぎ、自身のベッドへと上がった。弱々しく明滅していた子機のランプは、徐々に点滅の間隔を広げていき、やがて最後に短く緑光を放つと、それきり停止し、二度と機能を取り戻すことはなかった。


シーン21 緑光

PC3


「ふう……」
 午前一時、O市中央警察署前駐車場。
 日没から随分時間が経ったにもかかわらず、未だ熱気の引く気配を見せないアスファルトの上、白煙が立ち上る。
 通常の煙草と異なり、揺らぐ煙はインクの香りを伴う。圧縮された報告書(レポート)の燃焼が生み出す独特の匂い――B.I.N.D.S.“吊られた男(ハングドマン)”小隊隊長・永山栄の纏う匂い。
 表情には疲労の色が濃く現れている。何しろここ数週間にわたって働き詰めの上、事件対応のため夜昼問わない生活を強いられているからだ。
 オーヴァードといえど人間の拡張系、生活上のリズムが乱れれば体力にも影響が出る。
 加えて、
「、」
 着信を知らせる振動。端末を手に取り、画面を覗くと予想通りの名前。
 送信者――UGN国内評議会議員秘書/代筆。内容――コネクション先の親族の命をあたら散らした犬共に対する抗議という名の鞭。
 『遺憾』『相応の処置を検討』『場合によっては解体も視野』『作戦の正当性についての審問会を後日――』
 権力/自身の立場を保障する“繋がり(パーツ)”のひび割れに恐怖/その裏返しの、威勢良く攻撃的な文面。
 一方では慎重を、一方では果断を。言い換えれば、飼い主に資する保身と暴勇の両立を。
 随分我(わ)が侭(まま)なことだ。そもそも、この件をやりづらくしたのは自分たちの政争だというのに。
 “R号法案認可組織の活動における制限条項”、略称R制。
 UGNが持つ緊急時不可侵特権に自ら制限を設ける、国内独自の条項。
 表向きの名分は“レネゲイドの実社会に対する無用な影響波及の制限”。実態は“ウチの権益に自称正義の組織が遠慮会釈無く介入するのは許さん”という政治派閥が組み上げた、自己防衛のための防波堤。
 当時はUGNの力も弱く、日本支部が国内で速やかに活動出来るようになるためには必要な法案だった。……というのが、唯々諾々とそれを呑んだ関係評議員の言い分だ。人物が清廉潔白なら受け入れるところだが、残念ながら数々の前科が疑われている連中の選言としては白々しいと言わざるを得ない。“リヴァイアサン”が一つ一つ崩している枷の一つだが、何しろ似たような案件が山のようにあり、現時点では解消に至っていないのが現状だ。
 チームを分割しての潜入などという手段に踏み切らなければならなかったのも、ひとえにこの制度の影響による。どういう手段を使ってか、“母の導き”は非営利法人(NPO)としてこの制限条項の庇護の下に入り込んでおり、強制介入を行うには相応の物的証拠を事前に揃えることが求められたのだ。
 そしてその結果、貴重な人命が失われ、メンバーは大きな危険に晒された。
 煙を吸い込み、状況の再確認を進める。
 機器の損傷以外、直接の損耗はなかったとのことだが、精神系の干渉能力に身を晒すことは、少なからず心身に悪影響を及ぼす。表面化しない形で傷を受けている可能性は高い。
「(やりきれないな――)」
 本来なら自分や只野のような人間が出るべき場面だ。近江は言うまでもなく、ファーレンハイトも本来ならば後衛に甘んじるべき年齢。美津は優秀なエージェントだが、精神面ではまだ脆い。チルドレン特有の問題を抱えている。何が待っているか分からない敵領域に潜入するには、元々リスクの大きすぎる布陣なのだ。
 この失態――連中の表現をそのまま使うとするならばだが――は起きるべくして起きたものだ。その不首尾を現場の彼らに詫びこそすれ、糾弾することなど出来ようはずもない。
 やがて、再びの着信。差出人はこれも予想通り、金剛寺光長統括。
 審問会の日時、同席・説明資料作成を命ずる文面。そして末尾に、「私の力不足だ。すまない」との一文。
「……」
 再びポケットに端末をしまい込むと、半ばほど目を通した「進捗」についての一服(レポート)を揉み消す――やる方ない思いと共に。
 未だ車両がずらりと並ぶ駐車場を横切って、普通車に偽装したB.I.N.D.S.制式・特殊走行車両へと乗り込む。
 ――――――
 すると間を置かず、すぐさま着信。深夜にも関わらず日中と変わらない、明るい声音。
『二件了解です、永山サン。資料作りと、あと仮説改修――この辺をいじくってキーワードに追加して、推論プログラム(シビュラ)をごろっと回してみればいいんですね?』
『ああ』
 思わず苦笑させられる。“カノープス”――全天に二十一、曇天にあってさえ眩い輝きを放つ限られた一等星、そのコードを持つに相応しい明朗な応答。
「須磨氏!こんな時間まで起きているとは非正義的だぞ!」
 三時間睡眠を経て意気を回復した様子の只野の正義的注意。
『非正規(フリーランス)ですからねー、仕事が忙しいと夜更かしも度々なんですよ』
 そっちも遅くまでお務め(ジャスティス)ご苦労様です!よっ熱血!などと返し、ひらひらと躱す。途端に機嫌を良くして腕と膝を組む只野。
『そんな時にごめんね。手が空いた時でいいから、進めてもらえるかい』
『モチのロンですよ!サクッとやって、また端末に送りますね。お給金いいし、好き好んで引き受けてるんですから、そこは気にしないで下さい。これでもあたし、ちゃんとビジネスライクなんで』
『相応しい手当が出るよう、統括(上の方)に掛け合っておくよ』
 機嫌のよろしい応(いら)えと共に通信終了。電子上の通信相手がいなくなり、再び上機嫌の男との二人座席。
『……さて、こっちでも確認して貰いたいものがあるんだ。これを見てくれ』
 車載端末の大型液晶に表示される被害者少年のプロフィール――付された電子メモ数枚にある強調記述。
「ふむ。顕著な自罰傾向……罪の意識?」
『ああ。彼の場合は、自分の言動が両親を離婚に追いやったと信じていたらしい。詳細な動機は様々にせよ、同様の供述が取れたのはこれで三件目だ。そして、近江くんと天野さんの聞き込みによれば、彼らは全員、“マザー”の捕食対象に志願している』
「洗脳と呼ぶべきだろう!」
 再びの憤慨。
「誰が望んで悪なる者に身命を捧げるなどするだろうか!」
『ああ、そうだね。言う通りかもしれない』
 あながち聞き流したわけでもない様子で、永山が答える。
『場合によっては。あとはシビュラと近江くんたちが、裏付けになる情報を掴んでくれるかどうかだ。それと、もう一点』
 画面をスライドさせると、ライトグリーンを基調とするファイルが出現する。赤く“classified”の刻印が点滅しているのを、指紋/ウィルス活性/カラー登録の三段認証で解除する。
「これは……?」
 次々と展開されていく画像/動画/所見/討議録/研究記録/その成果要旨文書。
 どれも端々に共通の刻印が打たれている。
 《β》。
『今回の戦いを乗り切る上で必要になるかもしれない情報だよ。……或いはね』
 キーを差し込み、エンジン始動。
 車を発進させながら呟いた言葉には、出来ればそうでなければいいと願うような響きが込められていた。


シーン22 平穏の風景

PC5


 その日の起床は、いつもより少しだけ遅かった。
「……」
 ファーレンハイトに起こされ、着替えを済ませた近江は、美津との三人で朝食の場へと向かう。
 ここ数日の情報収集活動の結果、身についた習慣――コミュニティへの積極的な参加。
 食堂にはやはり老若男女様々な人間の姿が見える。特徴と言えば、子供を連れた親の姿が多く見られること。
 多くは片親。傷――ある種の不和、身の危険を経験した者たち。
「ほら、あーんして?……自分で食べたいの?じゃあはい、これ使って食べましょうね」
 目的、教育――食育。子供に“食事”の概念を覚えさせる。
 臍帯は必要な栄養を過不足なく供給する。それは食事の無用を意味するが、“文化”としてその行為を学習させたいと多くの親は望む。
 それ以外の者――嗜好として。体型に多少の偏りはあるが、おおよそ全員が標準体型。摂りすぎた栄養は臍帯を通して抽出され、バランスを調整される。故に、各々の食事量も様々。驚くほど大量の食事を携えて食卓につくもの、標準的な分量で“外”を彷彿とさせるメニューを摂るもの、ごく僅かに、自身の好みなのだろうものを間食程度に盛り付けているもの。
 厨房に立つ者の年齢層も様々だ。ただ、表情は一様に穏やか。客、の側に立つ人間と和やかに会話し、雑談を交わしながら料理を作る。家族――或いはそれ以上の関係性に基づく、需要と供給。娯楽の生成と受容の巡り。
「……おはようございます」
 見知った数人に挨拶を交わしながら、美津と共に食卓に着く。ポーチに擬態したファーレンは内部で録音装置を起動――いつも通りの手はず。
「ああ、ごめんなさいね。また周り汚くしちゃって」
 幼児用の、先の丸いフォークとスプーンが散らした料理の破片。一つ席を空けて座った美津に、母親が申し訳なさそうな笑顔で謝る。
 子供の方は元気なもの――近くに見知らぬ相手が掛けても物怖じもしない。臍帯の効果。“繋がり”が与える同属の感覚。周囲の人間の真似をしたがって、食器を不格好に操っては食事の真似事に勤しんでいる。
「いえ、いいんです。……今日もいい子ですね」
 笑顔で返す美津――その声音が、今日は僅かにぎこちない。
「やんちゃで困っちゃうわ。でも、そうね、あなたの言う通りだわ。お母様のおかげで泣くことも全然なくなったから……こうやってご迷惑はかけちゃうけど」
 首の根、肩にかけて点々と、痛々しい火傷の痕――しかし表情には翳りもなく。穏やかに微笑んで、子が一所懸命に食事に没頭するのを見守っている。
「ああ、だめだめ……そんなふうにしたら、またお皿からこぼれちゃうでしょう?」
 優しげに声をかけながら、やんわりと手に手を取る姿を見ていられずに、近江は味気ない食事を喉に通す。
 何処を向いても同じだ――平穏な生活を愉しんでいる人々の姿が目に映る。それぞれがそれぞれを慮り、特に気の合う者同士で身を寄せ合い、談笑しながら食の歓びを得る。そこには不安の色も、疲れの色もなく、ゆっくりとした時の流れがある。
 そして内膜の匂い――満ち満ちる“マザー”の気配。それが人々を安定させている。同じ匂いのする他人に、心を許して繋がり合っている。
「……」
 消えることのない異物感。でも、それは近江一人――自分だけのものだ。ここにいる多くの人々は喜びと安心を得ている。柔らかに傷を覆い、消えることのない痛みを、分かち合うことで少しずつ癒しながら、ここで生を紡いでいる。一度は挫けかけた生を。
「やあ、おはよう」
 隣に席を取った信徒――儀式について教えてくれた一人が、朗らかに声をかけてくる。
「……どうも」
 咄嗟に表情を取り繕う。相手は気付いた様子もなく、笑顔を浮かべながら、食事に手を合わせる。
「昨日の儀式、君も出たかい?すごかったろ」
「……はい」
「言った通りだっただろう?皆で繋がり合って――一つになってさ。ここにいる理由、ここにいていいって約束を確かめ合うんだ。おかげで、生きていようって思える。……あの子たちの分まで」
 “あの子たち”――光の塵となって消えた少年。過去にもいたであろう彼ら、彼女ら。
 己のことのように、嬉しげな様子で語る男。
 それは実際、己のことなのだ――命に関わる。
 “生きていよう”――脱落、滑落した敗残者、落伍者であろうと、それでも、心臓が切望するままに。例えその結実として、己が生命を場に捧げることになったとしても。
「いいところだよな、ここは。本当に、いいところだ。なあ、天野くん」
「そうですね。――そう、思います」
 近江の隠しきれない暗さを、静かな感銘と取ったらしい男は、満足げに頷いて、食事を始めた。
 秘した痛み――それを抱えているのは、自分と美津と、そしてファーレンだけ。儀式を経て一段明瞭に嗅ぎ取ることの出来るようになった匂い――安寧の念。誰もが幸福に浸っている。紛れもなく、事実として。
 ――いいのかな。
 心の内で独りごちる。
 ずっと抱いていた疑問。今では、美津も認めざるを得なくなった煩悶。
 理屈は確かに、一面でこの場所を否定する。外の世界では、彼らは失踪者だ――その行方を案じている人も複数人いる。けれど一方で、ここはここに生きる人々に、確かに必要とされている。“外”は彼らを必ずしも必要としない。多くの歯車の一つとして、有用性において個人を判定する。それらは交換可能で――心の内を斟酌するとは限らない。故に、彼らはここへ自分という存在を遺棄した。そして一部の者は、命を捧げさえもした。
 大いなる満足の内に。
 ポーチと共に食卓に着き、会話を続けている美津を見る。昨夜感じた臍帯の匂いの深さは変わっていない。形だけ拮抗するように、微かなホットドリンクの匂いが香る。自分も、恐らくは――あの儀式で、“繋がり”の匂いを強めたことだろう。
 僅かばかりの食事を採り終える。やり取りの時間を終える。
「美津。俺」
「うん。わかった」
 席を立ち、食堂を出る。すれ違う人たちとも、短く会話する。談話室も覗いた。“マザー”は初めて見た朝と変わらず、慈しむ微笑をその面(おもて)に浮かべ、少年と、少女と、子供たちと、大人たちと、静穏な時間を過ごしていた。
 同じ思いを、幾度も心が感触する。一つの選択肢が、脳裏を繰り返し過(よぎ)る。
 ――調査の打ち切り。
 美津は口に出さなかった。それでも、恐らくきっと、同じ事を考えているだろうと思った。“ここに問題はない”。そう報告すれば、事態は事件としては硬直する。この場所は世界の底に開いた救済の場所として存続し続け、滑落した人々は“マザー”の手によって救われ、掬い上げられ続ける。
 それでもいいのではないかと思った。例えここが何か大切なものを見過ごしていたとしても、それ以上の救いがもたらされるのなら。
「……」
 柔らかな光の差し込む天窓の下で、近江は立ち止まった。陽だまりの中で、近江有の餓えは眠っていた。
 道は二つに分かれていた。自室へと向かう道と、外へと向かう道。
 それは分岐路のように思えた。一つの平和を維持する道と、それを破壊する道と。
 暖かさの中で佇む近江はやがて、足を建物の奥へと続く方へ向けて――。


シーン23 Pool of Temperature

PC2


 漏れ入る陽射しが作る、そよ風に揺れる格子模様を、美津は何(なに)ともなく見つめていた。
 動けずにいる――人工と分かっている安寧の内側で。
 ただ赤子のように、何の力も持たない子供のように、膝を抱えて、黙然(もくぜん)と。
 ファーレンハイトは傍に寄り添っている。やはり言葉もないままに。
「ねえ、ファー」
「なに、ミヅ」
「私が帰るって言ったら、あんたは怒ってくれる?」
「……」
 沈黙。返らない答え。
 彼女は鏡だ。自分の、“天野美津”の。誰より美津を分かっていて、誰より近くで、美津の意思を重んじてくれる。
「わたしはミヅのそばにいる。……それしか、いえない」
 それだけ、ぽつりと口にした。
「ミヅがどんなふうになっても、ミヅはミヅだから」
「……うん」
 肩を寄せる。その熱を確かめる。
 自分の内側の火を覗く。弱々しく、頼りなげに、揺らいでいる。
 温度を上げても、火勢に手を加えても、その朧気な儚さは消えてくれない。天野美津の根本に入ったひび割れは埋(うず)まる気配を見せない。
 ――情けない、と叱咤する“私”。意気、矜持、そして恐れが、自分の内側で空転している。弾丸の抜けた拳銃が何度も引き絞られるような、がち、がち、という虚しい撃鉄の音。引き金を絞る力も少しずつ失せていって、内部に響く音の間隔も遠くなっていく。
 机上の端末。着信の存在を告げる点滅も、意識の隅に追いやられて身体を動かすに至らない。ただファーレンの体温だけを感じ、自分の中の火の揺らぎを見つめている。
 その灯りに時折緑光が混じる。無機質な熱からは決して生まれない安らぎ。ちらつく背中、一つの選択。否定することが出来なかった自分。消えていなかった“わたし”。
 このまま。
 このまま、ここで。
 “わたし”に還るのも、悪くはないのかな。
 その一言が、自分の内側で響いた時。
 ――こん、こん。
 ノックの音が、鳴った。


シーン24 All at Once

PC4


「では、語ってもらおうか。貴様が己の家族に行ったことが、正義だったか、悪だったかを」
「はい……」
 O市警察署本部、取調室。サングラスが六月の曙光を鈍く反射する。腕を組む只野正義の前で、両腕に入れ墨(タトゥー)を入れた大柄な男が、半ば浮かされたような様子で口を開く。
「俺は……たぶん、間違っていたんだと思います……」
 心の底に念入りに沈められた感情――抑圧された後悔、罪悪感。その表出としての怯えの表情。
「俺はあいつの……たった一人の……肉親です。あいつ……妹は……一人きりで……頑張ってた。俺もその事を分かってた。なのに、俺は……俺は……あいつが知りもしない野郎と子供を作ったって、やらかしたってことが許せなくて……」
「支えるどころか暴力を振るった。事もあろうに火を使って彼女を罰した。そうだな?」
「そう……です……」
 焦点が合わないまま震える瞳。ソラリスエフェクトにより強制的に曝き出された、精神の深層と向き合う瞳孔の開き。
「俺は……あいつを助けたかった……助けたかったのに……!」
 がたがたと身体が震え始める。副作用限界(オーバードーズ)の徴候。
「フン。己(おの)が悪の心に屈し、立ち上がれぬまま堕ちたか」
 腕組みを解くと、室内に漂っていた溶蝋のような匂いが消える。男の身体から力が抜け、肩がかくりと落ちる。
「記録したか、須磨氏」
『一から十まで録ったです』
 “首輪(カラー)”を通した骨伝導通信。溜息を押し殺すような、やるせなさの滲む声が返ってくる。
『これで七件目……“シビュラ”の予測対象も、まだどんどん広がってます』
 只野の取り出した端末、広域マップに複数表示された光点――一時間前よりも更に増加。
「被害者の自罰意識を助長する環境――少年少女の困窮の理由が身内とはな」
 吐き捨てるように言う。
『全部が全部、そうとは限りませんけど……。でも、そうですね』
 須磨側の端末。トリプルモニターの一角に最前列化された失踪者リスト、濃度でランク分けされた強調ラインの朱色は、若年齢層を中心に拡大している。
『共通点は見えてきた感じです。問題はそれが、何を意味するのかってことですけど』
 着信を告げる音が受話器越しに響く。同時に只野の“首輪”にも。
『近江くんから緊急の連絡が入った。現場は同伴の所轄刑事に任せて、“母の導き”本部に急いで向かってくれ』
「何かあったのか?」
『ああ。恐らく強行突入になる――須磨さん、“領域破り(エリアクラック)”班の手配と情報共有を。統括への許可は僕が取る』
『了解です。……あの子たちに何かあったんですか』
『天野さんが危険だ。近江くんもファーちゃんも、どうなるか分からない』
「後は頼んだ!!!!」
 蹴破る勢いで取り調べ室のドアを開け、呆気に取られる警官をよそに烈火の勢いで駆け出す。その合間にも続く通信。
『配置情報、送信しました。三〇分で整うそうです』
『ありがとう。それともう一つ、今から送る名簿と、失踪者リストの自罰傾向者との関連を出して欲しい』
 愛機“ジャスティスホッパー”のアクセルを掛ける頃、ひりつくような声音の須磨から応答。
 それを聞きながら、急加速するタイヤの擦過痕をコンクリートに残して発進した。
『……合致です。“シビュラ”が予測した候補者まで含めて、“マザー”の捕食対象となった被害者全員が、強度の自罰的自己認識の持ち主――“自分が生きていることを赦せない”思考の持ち主です』
『決まりだ。“マザー”は己の形成する居場所に馴染みきれない者――“癒しの場に生を見出せない非適合分子”を捕食している』
『美津……!』
 風を切り駆ける轟音の中で、“カノープス”が漏らす悲鳴のような声を聞いた。
「待っていろ!今すぐ行くぞ、少年よ、少女よ!!」
 猛り奔(はし)る“ホッパー”の駆動音にも負けぬ音声(おんじょう)で、“正義(ジャスティス)”が咆えた。
 真紅のテールランプの尾を引いて、炎の弾丸と化した鉄塊が並み居る車両の群れを飛び越えた。


シーン25 Blind thing

PC1


 光差す小径を、ゆっくりとした足取りで歩く。
 一歩一歩、そこへ向かって進み行く自分の業の重さを、確かめながら。
 辿り着いたそこでは、既に少女が待っていた。
 ――好井或乃。この場所では三度目の邂逅となる相手。
「来ないかと、思ってました」
 安堵とも、悲しみとも、どちらともつかない声で、或乃が言った。
「……ごめん。すごく、待たせた」
 目を伏せながら、近江が言った。
 昨晩――或乃が近江に向けて口にした言葉。
『有さんに知ってほしいことがあるんです』
 渡したいもの。伝えたいこと。それを今日のここで、受け渡す約束だった。
 ベンチに座る或乃の膝の上には、一冊の手帳が置かれている。
 頁(リフィル)を交換可能なタイプ――年季入りと思しきカバー。
「兄さんからの貰い物なんです。家を出るとき、これだけは持っていきたくて」
 綴じ目部分――開閉を繰り返して、中身の白が露わになったフェイクレザー。その表面を、懐かしむように指先で撫でる。
「兄さんからは、そんなもの捨てろって何度も言われたんですけど。初めての誕生日に貰ったものだったから、私にとっては大切だったんです」
 近江を見上げる――陽光の下で、互いの視線が交差する。
 或乃が手帳を差し出す。
「ここに、今までお母様の中へ還った方たちのお名前が載ってます。調べれば、たぶん、共通点が見つかると思います」
 瞳――何かに対する、寂しげな確信の色。
「……君は」
 口にしかけた言葉を、或乃が小さく首を振って遮る。
「……はじめは、ただの記録でした。つらい思いをした人たちのことを、忘れてしまいたくなくて。思い出と一緒に、日記に名前を書いていたんです」
 促されるように受け取った手帳、付箋が付けられている。――恐らくは、犠牲者たちの名前を綴った頁。
「でも、その内に引っかかるものを覚えるようになりました。どの方も、お母様の下へ行く理由は、外からでも判るくらいはっきりとお持ちでした。だけれど、“お母様の下へ行くことでしか救われないほど追い詰められている”とは、思えない方が何人もいらしたんです」
 蛍光色の透明な付箋。光となって領域に取り込まれた被食者の、永久に失われた輪郭を表すように。
 殆どが同じ緑色だったが、その内の何枚かには、マゼンタの付箋が貼られていた。
「私と友達だった人たちがお母様のところへ還った時、違和感は無視できないくらい強くなりました。だって、皆、約束していたんです。儀式が終わったら、またここでお話しようって」
 一人目は偶然。二人目は漠然とした不安から。三人目にはおずおずと警告し、指切りをした。
「“お母様の作るこの場所のことを、出来たらもっと好くようにして欲しい”って。皆この場所が好きでした。建物の中で他の方たちとずっと一緒にいると、息が詰まるような気がすると。最後の子は笑いながら約束してくれました。明日きっとまたここでと」
 マゼンタの付箋。最後の三枚目は、貼り付ける手が震えたのか、位置が斜めに傾いている。
「それで、俺に……」
「はい。有さんを見た時、同じものを感じた気がしました。案内もしないのにここに来た時、ああきっとそうなんだって思いました。お母様は、しばらくは、馴染むのを待ちます。誰も還る人がなく儀式が終わる時もあります。だけれど、もしかしたらって思ったら、言わずにいられなくて」
 得心される言葉の意味――『出来るだけこの場所に馴染むように』。
 彼女は殆ど理解していたのだ。この場所が何によって支えられているかを。そして、その上で、多くの人の回帰を見送ってきた。あの礼拝堂の、境界の淵(扉)に立って。
 それでも、その事を糾弾する気になどなれるはずもなかった。ここは救いの場なのだ。多くの者にとって――そして、“マザー”に招かれる者にとって。
「私には、答えを出すことができませんでした。……信じたかったんです、この場所のことを」
 立ち上がり、そっと、自分の輪郭を確かめるように身体に触れて、汚れを払う。
「有さんがもし、何かの答えを出すなら。その時何が起ころうと、私はその結果を受け入れます。その日記を渡したのは私だと、どの方に問われても答えます」
「……分かった」
 手帳を握りしめて、ようやくの体で頷く。
「お願いします」
 対する或乃は、小さく、ゆっくりと頭を下げた。
「それじゃあ、私、もう行きますね。兄さんに呼ばれてるんです。何か仕事があるみたいで」
「……或乃」
 そう言って立ち去ろうとする背中に、のしかかる重さを推して声をかける。
「なんでしょう?」
 振り返る面(おもて)。そよぐ風に乗って鼻腔を刺激する彼女の匂いは、紛れもなく人間(ヒト)のもので。
「ありがとう。俺、必ず答えを出すから」
「……はい」
 目を少し伏せると、僅かばかり寂寥の色を滲ませながら、或乃は笑った。
「有さん、やっぱり格好いいですね」
「――え?」
「誠実で優しくて、いい人ってことです」
 それだけ言うと、或乃は小径の向こうへと去って行った。
 後には手帳と、それを握る掌の熱と、纏わり付くような内膜の匂い。
 元来た道に向き直る。
「……急がないとな」
 道を選んだ以上、悠長に構えるなどという選択肢はない。
 人目に付かない程度の早足で、部屋に戻る。
 鍵を取り出し、差し込み、錠を開けようとして、
 ――しゃり。
「――、」
 かかるはずの手応えがなく、空を切るように半回転が終わる。
 鍵がかかっていない。
 背筋が総毛立つような、特大級の悪寒に襲われた。
「天野っ!」
 ドアを開けて中に飛び込む。
 いない――ファーレンハイトも美津も。
 嗅覚を研ぎ澄ませる。肉の匂いが新しい――二人ともつい先ほどまでここにいた。加えて、覚えのある第三者の匂い。
 濃く“母”の匂いが香る、個と全が甘く溶け合ったような独特の――、
「好井信治……!」
 ピースが繋がる。『仕事の呼び出し』。
 テーブルへと飛びつき、引き出しを開ける。ファーレンハイトが生成した即席の二枚板の下に、
「あった!端末……!」
 噛み付くようにして“首輪”+指紋の二重認証。画面が遷移する間ももどかしく、緊急時用の通話機能を呼び出す。
 露見のリスクなどこの際構っていられない。三度目のコールで永山が応答した。
『近江くんかい?何か――』
「天野が食われます!」
 肩に挟んで端末を保持しながら、手帳の付箋をめくり名前を読み上げる。
「今挙げた人たちは全員“マザー”の被食者です!“この場所”に反意を持っていることが共通項です、裏を取って下さい!」
『物証が取れたんだね、今すぐそうしよう。こちらもすぐに動く、合流を――』
「待てません!」
 全身の戦慄。領域の色相が変わりつつあるのを肌身が感じ取っていた。
 薫風――命の風巻(しまき)立つ緑玉色(エメラルドグリーン)のレネゲイド活性。
「先に行きます、出来るだけの事をやります!」
 言って通信を切り、部屋を飛び出す。
 すれ違う信徒たちが怪訝な顔をするのも厭わず、通路を駆けて、駆けて、駆ける。
 一歩を蹴り出すごとに粘膜と緑の匂いが強くなる。居場所はもはや確認するまでもなかった。建物最奥部、礼拝堂。
 分岐路の先に幹部の男が二人、佇んでいる。いずれも正視しがたいほどの粘膜の匂い。
 視線があった瞬間、袖から警棒を取り出し、大気が弾けるほどの紫電を走らせ飛びかかってくる。
「退(ど)けぇっ――!!」
 “首輪(カラー)”戦闘支援機能(バトルブースター)、全速起動(オールギア・アクセラレート)。励起したナノマシンが脳内物質の急速な放出を促し、目眩のするような衝撃と共に視界を灰色に染める。
 急激に鈍化していく彼我の動き。警棒を振り下ろす間を与えずに加速、リミッターの外れた全身の筋肉をフルに使い、体当たりからの回し蹴りで二人を同時に弾き飛ばす。
 命中箇所・鳩尾下腹部/右肩肩甲骨。どちらも痛打の手応えあり、低く歪んだ音声(おんじょう)を立てて、二つの肉体が受け身を取る間もなく両壁に激突する。
 常人相手ならば戦闘終了。緩やかに速度を落とし始めようとする“首輪”を押さえ、激しい頭痛を堪えながら顔を上げ――、
 ――ばちぃっ。
「っ!!」
 再び全速賦活状態に移行。殺到する二連撃を間一髪の間合いで回避する。
 交差する警棒より迸る電撃、その雷光が照らす怪物の異貌。
 怖気の走る“ワーディング”が通路を染め上げる。同時に空間が歪み、分岐路までの数メートルがあっという間に百倍近くの遠方まで遠ざかる。
 全力で後退し、戦闘支援の効力が失われる前に距離を取る。
 遅れて感知する臭気――血と肉と殺気、そして狂気に蝕まれ混濁した思考の匂い。
 ジャーム、しかもバイサズ――そしてどちらか、或いは両方が領域使い(オルクス)。
 二対一、初めてのたった一人での実戦。暴走を抑える薬剤の残量も保つか判らない。
「(けど、やるしかない――!)」
 唸り声を上げ、秘めた異形を全開放していく男二人――否、獣二匹に視線を向け、ふらつきながら立ち上がると、鍵と刷り込んだ言葉を震える唇で、しかし挑むように口にした。
「――変身」
 るぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ――――――ん――――。
 血潮の奥、心臓の内。近江有という容器の内部深くに密封していた猟意が解き放たれる。
 内臓、繊毛のごとき朱色の絨毯を酸化銀の漆黒波が食らい焼き尽くす。
 失われかけた理性を、拮抗薬液を最大量放出した“首輪(カラー)”が縛り付ける。
《うぁぁぁぁぁぁぁ――――!!!!!!》
 咆哮と共に世界の全てを追い越した。
 人間(ヒト)の知覚限界を遙かに越えた超音速の世界で、理(ことわり)を捻(ねじ)曲げる獣三匹の食らい合いが始まった。


シーン26 胎内回帰1

PC5


 ――ごと、ん。
 扉が閉まり、殆ど同時に、頑丈な錠が降りる音を聞く。
 潜入以来二度、ここに立ち入った時には使われなかった機構。
 音響の規模・性質からして、鍵というよりは閂(かんぬき)に近い。恐らくはチタン合金――キュマイラシンドロームの膂力でも突破には時間を要する類の、最高効率の障害物(バリケード)とでも呼ぶべきもの。少なくとも非オーヴァードの物量攻撃では開封不可能、オーヴァードでも生半の方法では破れない代物。
 吸音材に遮られて扉自体の材質は判別出来ずにいたが、この様子からするとそちらも相応の強度を持つものと考えてよさそうだ。
 詰まるところ、袋の鼠。これからここで何が起ころうと、その情報は外部に届かない。
 その事実――置かれている状況を、神経結線(ニューロンコネクト)を通じて主に伝える。返答はなし――部屋を出てからこの場所へ至るまで、一貫しての無言。自我が相互貫入を始めるクラス4、最深度接続ほどではないにせよ、ファーレンハイトと美津(主)との接続は、基本的に鏡像段階(クラス3)の境界前後を推移している。にも関わらず何の情報も伝わってこないのは、美津の心が意図して自閉、反応を伺わせないよう振る舞っていることを意味する。
 二人の間に精神接続が築かれてから、初めての事態。それでも、ファーレンハイトは自分自身の機能を全うし続ける。それが自身の有用性であり、美津に対する信頼の証であるからだ。
 機能を、全うする――。
 物言わぬ道具への擬態物であり続ける。例え主に何が起ころうとも、彼女自身の指示があるまでは。
 吐く言葉の一つ一つが神経を逆なでするこのような下衆の前でも――沈黙を貫き続ける。
「しかし、ねぇ。キミの兄貴も大概薄情というか、勿体ないことをする奴だねぇ」
 嫌みたらしい声音、値踏みするような視線。
 好井信治が主の目の前を、半円を描くような調子でうろついている。
「こんなに可愛い義妹(いもうと)がいるのに、ほっぽって何処かで遊び呆けているなんて。うちの陰気と交換したいくらいだよ」
 ――汚らしい目で主(ミヅ)のことを見るな。
 こんな生白い雑魚、許可があれば即座に蜂の巣(ミンチ)にしてみせるのに。
 今この場にいない少年――近江有ほどではないが、ファーレンハイトとても多少の“鼻”は利く。厳密には嗅覚ではなく、触覚、他者と融合合体する精神感応能力の応用だが、その立場からしてもこの信治は臍帯の奴隷だった。
 これ以上なく濃く香る、“マザー”の内膜の匂い。それを深く受け入れ、自分自身のアイデンティティの根幹にまで染み込ませている。信徒が臍帯との接続者なら、こいつは、臍帯の狂信者だ。臍帯から恩恵を受けるものではなく、恩恵を与える臍帯を信奉している人間だ。
「ただまあ、お陰でこうやって、特に騒がれもせずに君をここまで連れて来られたワケだけどね。最悪、実力行使に出なければいけないところだった」
 体格のいい信徒をつれて部屋を訪問した信治は、今すぐ礼拝堂まで来るようにと美津に伝えた。事前の指示で擬態したファーレンハイトを連れて、美津は大人しく指示に従った。結果、
 ――六対二。
 幹部と目された者たちが礼拝堂後方に、儀式の時と同様、居並んでいる。
 戦力規模は不明――幹部のどこまでがオーヴァードで、或いはバイサズなのか、奥の扉の向こうにどれだけの人数が控えているのか、それも分からない。
 仮に全員がジャームだったとすると、既にこの時点で形成不利だ。それが戦力の全てならやりようもあるが……。
 “マザー”。あの女が出てきていない。
 大量の捕食を経て力を付けたと想定されるあれの脅威を計算に入れると、それだけで勝率は一気に低いものになる。領域能力者(オルクス)相手に防戦という選択肢は採れない。助けを待つにせよ、撤退の機を窺うにせよ、遮蔽や隠蔽の難易度を跳ね上げる領域探知は生還率すら引き下げる。
 好井信治が手勢を連れて現れた時点で、こうなることは殆ど予想されていた。礼拝堂――“導きの母”の心臓部とも言える場所。そこへ向かうことを唯々諾々と受け入れた時点で、美津は、
「……」
 美津は。
 主である彼女は一言も発せず、信治の言葉にも反応せず、ただ佇んでいる。
 半ば、忘我した人形か何かのように。
「だんまりかい。これでも俺、学校ではモテたんだけどね。まあいいや、キミも母様と一つになるなら、それで俺とキミはヤることをヤったような間柄だ」
 仰々しく不満げな、それでいて笑みを絶やさぬ顔で肩をすくめてから、信治が背後を振り返る。
 礼拝堂最奥部――別室へと繋がる扉を。
「さあ、母様がお出でだ。思う存分、話すといい。母様もそれを望んでおられる」
 信治が道を空けると共に、暗闇の中から“それ”が姿を見せる。後ろに一人、侍女のように連れている少女――好井或乃。
 ちらりと僅かに、美津の視線が或乃へ向かう。しかしすぐに、“マザー”を正面から見据える。
 “マザー”は微笑んだ。至極穏やかに。数十年見慣れた家族の、久々の帰還を迎える母のように。
「……」
 応じる美津は無言。他人とも、接続者とも、取りかねる表情で、“マザー”に向かい合う。
「貴女は、難しい子(ひと)ですね」
 苦笑して、“マザー”が目を僅かに細める。
「とても、とても、入り組んでいて……。重すぎる傷を、幾本も絡めた鉄の糸で吊り上げて支えて、一人の人間としてここに立っている。そう、独りで。貴女は、望んでここに来た訳では、ないのですね」
 糾弾する様子もない、ごく穏やかな声。
 信治が眉を跳ね上げる。
「母様、それはどういう……!?」
「いいのです。そういったことを気にするのは、私ではなくて、“あの子”」
 恐らくは、この場にいない津村。
「……私のことを思って、あの子がそうしてくれているのは分かっています。けれど、私は元々、垣根を設けるつもりなどないのです。そのことは、貴方も承知しているでしょう?」
「それは、そうですが……」
「ですから、貴方を咎めるつもりはないのです。そうではなく――」
 視線が、臍帯の主の注意が、再び美津に向くのを感じた。
――ぃぃん。
 遠く、鐘の音に、鈴の音に、似た音が小さく響き始めている。
 “マザー”のエフェクト――単なる栄養供給の域を越えて、個人対個人としての繋がりを設ける力、その発揮。侵食ではなく呼びかけ、攻撃ではなく愛慕。
 そこに飢餓の色はない。香る薫風、緑玉の光には、ただ温もりだけがある。懐旧と共感を呼び起こす熱、幼い天野美津が掴み損なった本当の暖かさ。それが、包むように美津とファーレンハイトを取り巻く。
「(ミヅ――)」
「貴女と繋がった時、その底に大きな痛みを感じました。貴女がそれを手放したいと、切実に望んでいることも」
 労(いたわ)しげに、“マザー”が美津を見つめる。美津は未だに表情を崩さない。
 それでも、ファーレンハイトにはその内心の大きな動揺が読み取れた。自閉しているはずの結線を越えて流れ込んでくる感情。恐らく、再び思い出しているのだ。あの光景を。
 美津が動きを止め、少年が席を立った時、ファーレンハイトは観測機の傍を離れることが出来なかった。それが美津の厳命だったし、因子が最活性化している状態で僅かでも動けば、隠蔽を看破されかねない。美津への到達前に対処を受ければ全てが水泡に帰する。それ故あの時、ファーレンハイトはただ黙って見ていることしか出来なかった。無差別に広がる繋がりの中で、美津が少年に、“マザー”に、深い理解と共感と、そして切実の念を抱いていくのを。
 ファーレンハイトとて、否、深く美津を知るファーレンハイトだからこそ、その心情が分かった。ファーレンハイトと、美津は似ている。一から構築した存在だという意味で。それでも、ファーレンハイトには生まれつき定められた機能があり、価値があり、問題はその価値との向き合い方、意味の見出し方だけだった。美津はそうではない。一度手にしていたものを己の過ちのために喪って、焼け跡から全てを組み立てた。その廃墟の、燃え尽きた残骸の熱の痛々しさをファーレンハイトは知っている。積み重ねた氷の層の奥底の、未だ燻っている傷の熱量を知っている。
 温もりがある、匂いがする。美津が心を許せば、“マザー”は容易く美津の精神に侵入する。そうなれば恐らく、美津は消える。
 それでもファーレンハイトは、擬態を、隠蔽を維持し続けた。命令もある、信頼もある。しかし、それ以上に――もし美津がこの暖かさに還るのだとしたら、それを妨げないことが、ファーレンハイトという一つの存在(命)が望むことだから。
 立ち上る緑の風。そよぎ寄せるその揺らぎに、柔らかな切っ先に、美津の心の防壁が少しずつクズされていく。流入――結線しているファーレンハイトにも、その気配が伝わってくる。自閉された壁の向こうが、光の色に染まっていく。
 やがて、風は全ての壁を越え、美津の身体自身を包み込み始めた。閉じられた結線の向こうは、既に暖かさの海に殆ど呑まれかけている。
 “マザー”が胸をはだけ、腕を広げて美津を歓迎する。一歩ずつ、少女が歩き出す。たった一人で瓦礫から立ち上がり、孤独の中で、焼け跡の光景を重石に引きずって、長きを這ってきた天野美津が、救いへと、近づいていく。
 “マザー”の古傷が血を零し始めた。いつか誰かが、他の誰にも知られる事なく零した涙のように、静かに肌を伝う。
 美津が“マザー”の傷口に近づく。唇――自らの存在の内と外、その境界をなす場所を自ずから開き、血潮に向けて近づける。
 粘膜と血潮。分かたれたその二つが、一つのシルエットを成そうとした、その時――。
 ――どきゃあっ!!
 ――どきゃあっ!!
 みしり、みしり。
 堅牢堅固、扉そのものを安定固定すべく壁面十数平方メートルに渡って張り巡らされた鉄骨網が、礼拝堂という場そのものを揺るがせる振動の発生源となって空気を叩いている。
「――」
 風の回流が束の間その滞りなきを止め、マザーが扉へと一刹那、注意を奪われかける。
 次の瞬間、
『おぉォォォォォォォォォ――――――――!!!!!!!』
 ぎ、ぎぎぎぎぎぎぎぎぃっ。
 ――どうっ!!
 耳を劈(つんざ)く凄まじい轟音と共に、鉄骨網・扉周辺を固めたコンクリート片+チタン合金扉+へし折れんばかりにひしゃげた同材性閂+大きく歪んだ八方鉄骨網それ自身、が消し飛び、扉から見て前方正面、礼拝堂奥壁・美津たちの上方天井付近へと激突した。
「ひぃっ!?」
 ――ずざぁっ。
 悲鳴を上げた信治の前方数メートルの位置に、激しい炎と炸薬、硝煙の匂いに包まれた獣(モノ)が着地する。
 そして、間髪を入れず。
『天野ーーーーーーーーっ!!』
 歪んだ声帯で叫ぶ、刃のような成りをした怪物が、“マザー”へと向けて躍りかかった。

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