待つ。
待つ。
待つ。
次の命令を
次の指示を
ただじっと座って待っていた。
男が近づいてきた。
酒と、煙草と、血の匂いがむせかえるような男。
何か、危険かもしれないような男。
目の前に来て、こちらに目を向けた。
何か指示だろうかと思い、視線を返す。
白くて黒い顔。薄くて昏い瞳。
男が言った。
「腹、減ってないか。」
それに重ねて聞いた。
「"だれか"食べに行く?」
「違う。普通のメシだ。」
自分にそれを問う理由も、動機も分からない。
ただ、何となく、手を伸べてみた。
少し怪訝な顔をしながらも、男が自分の手を取る。
加減を知らないのだろう。多分、普通の人間だったら痛がる強さ。
でも、確かにその手は。
ほんのりと、暖かかった。
テーブルの上で、シーツを下半身にかけただけの少女が横になっている。
シルクのように艶やかな黒髪、透き通るように白い肌、そしてヴィーナスのようなプロポーション。
街中を歩いていたら、男女問わずすれ違う人間を振り返らせるだろう少女であるが、おかしな点がある。
ついているべき右の腕が、無いのだ。
いや、すぐそこにはあるのだ。ただ、有るべき場所に繋がってはいない。
その腕は、テーブルに向かう男の目の前の、皿の上にあった。
その男は、そっとその腕を手に取ると慈しむように撫で、口付けをすると
大口を開け、食らいついた。
その動作に一切の澱みはなく、慈しむように、惜しむように一口一口と咀嚼し、嚥下してゆく。
「 ーーー はーぁ… 満たされるなあ。前は前で良かったんだけど、今はもう、身も心も満ちるなあ。
≪余計なモノ≫>かと思ったけど、あながち捨てたモンでもないんだな。」
恍惚の表情で、男が呟く。
それは、狂気以外の何物でもないようであり、しかし強力な「正気」によって成されたものだった。
ーーー 痛い
痛い痛い痛い
でも、いつもの事だ。声も出さずに、じっと堪えて、彼女の気が済むまで耐えるしかない。
表情は見えないが、人気のない路地で、地べたに蹲る私を、彼女は足蹴にしている。
逆らう気概もないし。周りに心配も掛けたくない。
私がただ我慢すれば済む。ただそれだけの事だ。
ふと、彼女の蹴りが止まる。ようやく終わりか、と思ったのだが
何だが様子がおかしい。
「……何だよ。てめえには関係ねえだろ。あっち行けよ。」
「んー、、2人いるとは想定外だったなあ。 ま、いっか。君の方が≪楽そうだし、楽しそうだ。≫」
若い男の声が聞こえて、顔を上げてみた。
そこで、私は【都市伝説】を目にした。
ーーー 腹が、減った。
いやこれだけだと、正直どこかのくたびれた中年の食いしん坊オジサンみたいだよね。
でも実際腹が減ったんだから困る。
俺はあのオジサンと同じかそれ以上に食に煩くて、あのオジサン以上に好みの食べ物にありつき辛いのが輪をかけて面倒だ。
時計は17時を少し回った頃、俺はお決まりのパターンとして、駅近くの商店街をぶらつく事にした。
商店街といっても、近場に大型ショッピングモールが出来て、廃れつつあるような所だ。だからこそ、ここがいい。
夕食時に向けてぼちぼちと開き始める色々な店。揚げたての匂い漂うコロッケも捨てがたいけど、今回はお預けだ。
あちこちに目配せしながら歩くも、残念ながらピンとくる所はない。
ここはダメかあ、と半ば諦め、肩を落としながらも歩いて行く。
すると、だ。匂いがするのだ。好みの匂いが。
場所は商店街を少しだけ出た場所。住宅地に入りかけた所の裏路地で、それこそ「死角」と呼べるような場所だ。
逸る気持ちを抑えながら、匂いの元へと1歩1歩近付いて行く。
さあここにどんなご馳走が待っているんだろう!
と、角を曲がると。
想定外だ。少女が2人いた。
どちらも制服姿で、1人は頭を抑えながら蹲り、もう1人はそれを足蹴にしているようだ。
匂いの元は蹲っている少女の滲んでいる血。
「……何だよ。てめえには関係ねえだろ。あっち行けよ。」
正直、好みで言えば蹲っている少女のほうだ。しかし ーーー
「んー、、2人いるとは想定外だったなあ。 ま、いっか。君の方が≪楽そうだし、楽しそうだ。≫」
情報伝搬の危険性、それぞれの位置取り、そして、正義の味方ぶるつもりもないが、個人的美学に基づく状況への対応として、立っている彼女の方を選ぶ事にした。一度に2人というのは流石に面倒だというのもある。
「 さ、おやすみ。詳しい話は、後でゆっくりしよう、ね?。」
手伸べると、【敢えて】ごく至近距離に限定したワーディングを発生させる。ハタから見ると催眠術か何かに見えるんだろうか。
瞬時に気を失って倒れる少女を片手で受け止めると、空いたもう片手で唇の前に人差し指を立てる。
「ーーー 静かに。出来るね?」
こちらを見る少女Bは、目の前の事を受け止めきれないようで、しかし静かに首を縦に振る。
「 言っておくけど、俺は正義の味方なんかじゃあない。とてもとても酷い何かだ。本当なら君を連れて行きたかったんだぜ?」
ゆっくりと歩み寄る。どうやら恐怖で麻痺しているようで、身動きも発声も出来ないようだ。
嗚呼 たまらない。
頬を撫でてやりながら、耳元に唇を寄せーーー
「噂にするのも、助けを求めるのも自由だ。
でも、きっとそのうち、君を迎えに来るぜ。
これは、その印だ。」
耳朶を強めに噛んで傷を付けると共に、彼女も同様にワーディングで気絶させる。
さて。やる事をやったならこの場に長いする事も無い。
手早く隠れ家までの【近道】を開けると、素早く飛び込んだ。
久々に、楽しい食事になりそうだ。
『ーーー模擬戦闘シーケンス1を開始します。
関係者以外は速やかに退室して下さい。』
無機質な電気音声が響く室内に佇む2人。
ーーー いや、1人と≪1匹≫
片や、アニマルバイサズオーヴァードである雑種犬、ジョン。
片や、そのジョンの飼い主であるノーマルオーヴァード、金魚良圭。
その目の前に、無数のダミーターゲットが、床から・壁から・天井から出現する。
それを一瞥した良圭は、発現したノイマンシンドロームが齎す超高速演算から、全撃破の為の最高効率手順を瞬時に導き出しーーー
「 行くよ、ジョン!」
掛け声と共に、短く指笛を吹く。
「バウ ッ!」
その音を号砲に、ジョンがバイサズオーヴァードとしての/キュマイラシンドロームオーヴァードとしての変身を始める。
その姿は、猫科・犬科の猛獣のパーツに猛禽の瞳などを組み合わせた、文字通り合成獣≪キメラ≫
その獣が、眼前のターゲットに向かい猛進しーーー
「 A、G、D!」
良圭からの単純なコード(暗号)を受けると、それに応じて≪牙で/爪で/体躯で≫≪表から/裏から/側面から≫数々のターゲットを、恐るべき速さで破壊してゆく。
「 良し!そしたら C7!」
天井のターゲット目掛け、ジョンが跳躍する。獣の跳躍力を持ってしても届かないであろう場所に、躊躇いもなく飛び上がるとーーー
「 『出る』よ、乗って!」
跳躍の頂点となる場所に、瞬時に『足場』が出来上がる。
良圭に宿ったもう一つの力、モルフェウスシンドロームにより錬成されたものだ。
その足場を一蹴りすると、高い天井から生えるターゲットすら破壊し、戦闘訓練の終了を告げるブザーが鳴った。
良圭が、開始の時より一際強く指笛を吹くと、息を荒げながらも、ジョンの姿が元に戻ってゆく。
「よし!良くやったジョン!良い子良い子!」
ジョンをかいぐりながら、ポーチから取り出した特製ジャーキーを与える。
『よしか、ボクじょうずにできた!?できた!?』
ジョンの首輪のデバイスから、少年のような合成音声が発せられる。
「うん。もうこの訓練はバッチリかな。明日からは別のやつ始めようか。」
きょろっとした瞳を見つめながら、優しく語りかけ、撫でてやっていると
「よしかサン、終わったー? ジョンのご飯、用意できたって。」
同じ支部に所属する鏡宮ミヤコが、スピーカーから声を掛けてきた。
「ーーーうん、分かった。ありがとね、ミヤコちゃん。」
『ごはん!やったあ!』
対照的な2人の反応。それを目にするのは初めてではないが。
「…ね、よしかサン。私で良ければ、いつでも代わるからね?」
「ううん。心配してくれるのは嬉しいけれど、私がジョンの飼い主だから。大丈夫。」
「そっか。それじゃ、片付けは任せて下さい!」
「重ね重ね、ありがとうね。 ジョン、行こっか。」
ジョンを引き連れた良圭は、トレーニングルームを出ると、いつも通りの指定された部屋へと向かう。食事が待ち遠しいのか、ジョンは心なしか足早だ。
宗教画のような、仰々しい老人が描かれた扉を抜け、少しばかり直線の通路を通った先にある部屋には、簡素なテーブルと椅子、そしてジョンのための食事と水が用意されていた。
『ね、ね、まだ?よしか、食べて良い?』
尻尾をせわしなくはためかせながらも、大人しく待つジョンに
「…『良し』 食べて良いよ、ジョン。」
と声を掛ける。
待ってました!とばかりに餌皿に顔を埋めるジョンと、陰りを帯びつつも優しく見守る良圭。
彼女は、知っている。彼が食べているものが"何"なのか。
その上で、彼女は望む。彼が"それ"を食べることを。
その意味と、業を自らの腹の中に飲み込んだ上で。
これが、変化(かわ)ってしまった2人の、変わらない絆の日常。
飼い主/クソ野郎が妙な男を連れてきた。
目に痛い色のアロハシャツに丸いサングラス
おまけに綿飴のような金髪 ーーー のカツラ
変装にしても酷いセンスのそいつが口を開く
「 これが最近、一部の界隈で噂になってるフィドラーねえ。俺はてっきりシワの込んだ爺さんか何かだと思ってたよ。」
何でも、この男の前で1曲聞かせてやれというのだ。本人がそう望んでいるらしい。
「自殺なら他所でしろ。鬱陶しい。」
「自殺なんてするぐらいなら、ロマンスの果てに刺されて死ぬ方がよっぽど良い。
そんな事より早く始めようぜ子猫ちゃん。弾けるだろ?熊蜂の飛行≪ flight of the bumblebee≫だ。」
そう言うと、男はバイオリンと共に用意されたアップライトピアノの前に腰掛けた。
「ーーー 分かった。死ね。」
最高速・最大密度を叩き込んでやる。
バイオリンを手に取り、一息だけ吸いこむと、そいつの方に目を向ける事なく引き始めた。
同時にピアノの音も聞こえ始めたが、どうせすぐ途切れるだろう。この密度じゃ10秒と保つまい。
ーーー いや 何だ これは
運指に、僅かな乱れもない。
アレンジこそ入っているものの、伴奏は淀みなく続いている。
並みの人間なら、まず理性など保てないはずだ。
転調しようが、テンポを変えようが、即座に修正し、合わせてくる。
その疑問の答えに至る前に、ついには弾き終わってしまった。
男の方を見やる。
耳栓などをしていた訳でも、自動演奏だった訳でもない。
汗を軽く拭いながら、ただ笑っている。
どうしてだ、何故あいつはーーー
「ーーー聴いた者の精神(こころ)を乱す魔の旋律。神か悪魔か、まあ魔性のモノでなきゃ弾けないおっそろしいモンだよなあ。
でも、それが旋律である以上、鍵は『音』なのさ。
然るべきタッチ・コード・トーンをぶつけてやれば。
魔法は、消えるのさ。」
「何なんだ。 一体何者だテメエ。」
「 ハルト。好き勝手にピアノを弾いて楽しく遊んで暮らせる程度の天才ピアニストさ。
さあ。もう1曲、どうだい?」
「プリオン」って聞いた事あるかな?いやまあ、普通の人間じゃまず聞かない単語なんだけどさあ。
大雑把に言うと、タンパク質の一種なんだ。動物の身体にも、もちろん人間の身体にもある。
で、そのプリオンを何故わざわざ話題に挙げるか。
プリオンは、構造が少し変なタンパク質なんだ。ああでも、別に普通に存在するだけじゃ何の問題もないんだ別に。『普通に存在するだけ』ならね。
例外の1つは、有名な奴がある。
『狂牛病』だ。
こっちは聞いた事あるだろう?
肉骨粉、つまりは【同種の生物の肉】を大量に摂取した結果、プリオンが蓄積され、それが脳に影響を及ぼしたんだ。
勿論、同様な事は人間にも起こりうる。詳細は各々に調べてもらうとして、カニバリズムの風習がある部族とかで、症例が確認されている。
カニバリズムが禁忌とされているのは、倫理的にもそうだし、こういったケースを防ぐため、という部分もあるんじゃないかな?
だから
俺はずっと、食えなかったんだ。
全く食わなかった訳じゃないけどさ。
加熱しても性質が変わる訳じゃないから
命と天秤にかけて、我慢してきたんだよ。
ところがこの身体はどうだ。
周りの奴らがそうだろうというのは知ってたけど
いくら喰った所で、全く持って支障が無いし
何なら、それを栄養として過ごす事だって出来るんだ!
若干面倒な性質はついて回るけど、その程度どうでも良い。
これは、紛れもない【福音】なんだ ーーー