八田修司
最も獣たち(テリオン)に近く、最も獣(バイサズ)から遠い一般人
かおりな

あれはいつだったか、寒い日だったことは覚えている。あの日、僕の人生は音すら立てられずに崩壊した。

「俺カテキョのバイトあるんで一旦抜けまーす。お疲れーす。」

そう言って後輩が一人実験を切り上げて帰っていく。
国立T大学理学部生物学科の分子生物学研究室、そこが僕のホームだった。
教授一人、准教授一人、助教一人、教授の秘書一人、博士課程後期が僕含め二人、博士課程前期が五人、学部生が四人の計十五人の人々がそこに確かに存在した。あの時研究室にいたのは教員全員と学生が半分ほどだっただろうか。その場にいなかった者のその後はわからないが、居合わせてしまった者より幸福な人生を歩んでいる事を願いたい。
午後七時、この世の物とは思えぬ人とも獣ともつかぬ叫びが響き渡った後、僕たちは日常から切り取られた。永遠に、永久に。
気付けば見知らぬ部屋の床に転がっていた。窓はなく場所も時間も窺い知ることはできない。
どうやらあの時研究室にいた全員が同じ目にあっているようで周囲には見知った顔が同じように転がされている。教授と准教授の顔もあることに安心する。どうやらその他は学生ばかりなので頼れる大人がいるというのは心強い。
もっともこの期待はすぐに裏切られることとなるのだが。

「なんだここは! 今すぐここを開けろ! 警察を呼ぶぞ!」

起き上がり一通り部屋を調べた准教授がしびれを切らして叫びながら扉に蹴りを入れる。しかし扉は一切の返答を示さずただ僕たちを閉じ込め続けるばかりであった。
"警察"という単語で何人かが携帯電話の存在を思い出す。しかしポケットに入れていたはずの人たちの「ない」「おかしい」などの呟きからその捜索が無駄であったことを知る。そもそも携帯をデスクに置きっぱなしにしていた僕は、犯人(そもそもこれが人間による誘拐であれば、犯人と呼ぶべきものがいれば、だが)に捨てられるよりは置きっぱなしにしてきて正解だったかななどと腕をかきながら考えていた。
それからしばらくの時間が経った。教授の言でまずは落ち着いて体力を温存しようということになり、皆の口数もかなり減ってきた頃合いだった。
扉が開き二人組の男が入室する。ここぞとばかりに准教授が話しかける。

「一体これはなんなんだ! 私達を早く解放してくれ!」

全員の視線が准教授と謎の二人組に集まる。
しかし二人組は准教授には目もくれず、手元の資料と僕たちの顔を見比べる。そして学部生の内の一人を指さすと、その子を捕まえてどこかに運び出そうとする。見た目よりも力があるのか抵抗もむなしく引きずられていく。
あまりのことに僕も含めてほとんどの人間は見ていることしかできなかったが、准教授だけはその短気さゆえかそこへ割り込もうとした。

「何故何も答えない! 何とか言ったらどうなん――」

そこで僕たちは常識の通じないとんでもない物事に巻き込まれていた事を知った。
二人組の内の背の低い方の腕が突如としてゴリラのような太い筋肉の塊へと変化し、准教授を殴り飛ばしたのだ。
その巨木の激闘のような衝撃を受け、壁に叩きつけられた准教授は全く動く気配がない。

「は……?」

あまりの事に全員の呼吸が止まる。
当然だ。人の腕がゴリラに変化して襲ってくるなど映画のCGでしか見たことがなかったのだから。
しかしその獣の臭いと血の匂いはそれが紛れもない真実であると訴えかけてくる。

「おい、喰う分以外は殺すなという命だったはずだろ。」

二人組の、まだ人の形を保っている方がやれやれと言った感じで巨腕の男に話しかける。

「ああ、つまりは喰う分であれば殺してもいい、って事だろう?」

顔の半ばで獣へと変化した男の横で、さきほどまで人形を保っていたもう一人の周囲に漆黒の目玉が浮かび上がる。目玉たちの中心に立つ男の顔は黒い闇で覆われ、その表情は全く読み取ることができない。

「その通りだな。お前猿の猿真似(キュマイラ)の割に頭いいな。」

その声色は喜色に満ちている。まるで休み時間に友達からお菓子をお裾分けしてもらったかのような軽さで応える。

「そうと決まれば邪魔が入らないところへいくぞ。おい目玉野郎(バロール)さっさとあれ出せ。」

そこから先のことはあまり覚えていない。謎の虚空、虚空としか表現できない何かに准教授だったものが飲み込まれ消えていくのをただただ見ていた。気付けば二人組もおらず、部屋の出入り口も空間が固定されたかのように閉じられていた。
全員で悪い夢を見ているのかと思った、そう思いたかったが、目覚めた後でも床に垂れた血痕は消えずに固まっていた。

何時間後だろうか。今度は先程の二人組に加えて白衣の女が一人やってきた。二人組が気を使っているところを見ると女の方が上司のような立場なのだろうか。

「一、二、三……報告では二人死亡、九人捕獲ってことだけど? 君らは数も満足に数えられないのかねえ。」

確かに今部屋にいるのは八人だけだ。計算の合わない一人が消された准教授であることは皆分かっていたがそれを口に出すものはいない。

「一人は抵抗を示したため我々で処分しました。」

二人組の男の背の高いほうが答える。ニヤついた笑顔でもう一人を見やる。視線に気付いた背の低い巨腕も下卑た笑みで頷く。

「それで骨も残さず食べましたって? これは私が狩野様(あのお方)にご用意頂いた獲物なのよ! それを勝手に……」

一度急降下した女の視線の温度が反転して急上昇する。それに反比例するかのように男二人の体温が下がったかのようにガタガタと震えだす。
歯の根も合わず目も虚ろになった二人はついにその場に倒れ込んで動けなくなってしまう。口から零れる泡だけがかろうじてその生存を表していた。

「一体、どうなってるんだ……」

二人の男はまるで急速に薬物を投与されたかのように床に折り重なっているが、ここに至るまで女は一切その体に触れてはいない。むしろ汚らわしいものを見るかのように距離を置いていたくらいだ。
人が忽然と消えたかと思えば手も触れずに薬物で人が倒れる。まるで魔法使いの世界に来たかのような非常識がまかり通っている。

「それは私が説明しましょう、教授」

白衣の女が落ち着いた様子で話しかけてくる。身内のゴタゴタを片付けてどうやら本題に入ろうとしている。
しかしこの状況を作ったのがこの女の差し金であるなら、これから説明される事もロクな事ではないのだろう。

「平たく言えばこれはヘッドハンティングです。私達の組織には優秀な頭脳をもった人材が足りない。さきほどのような腕を振り回すしかない木偶は残念な事にたくさんいますが。」

そう言って女は先程二人が折り重なっていた辺りをちらりと見るが、そこにはもう何も無い。ただ、凹みも汚れもない床が無言で存在しているだけだ。

「そこであなたがたのような優秀な集団にお手伝い頂きたいわけです。テリオン(ココ)は知的好奇心を満たすにはうってつけの場所であることは私が保証します。」

身勝手な理屈をベラベラと並べていく。何もかもが滅茶苦茶で反論したいのだが、女の迫力に気圧されたのか誰も言葉を発せない。

「ただ、一つ条件があります。レネゲイドの力に目覚めること、それが絶対条件です。それができなければ……木偶の棒たちの首狩り(ヘッドハンティング)の対象となって頂きます。」

気付けばまた地面と口づけを交わしていた。倒れた時にぶつけたのか鼻の頭が痛い。辺りを見回すと全員が同じように起き上がったところだ。
しかしいつの間に気を失ったのだろうか。あの高慢な女が演説をぶったところまでは覚えているのだが……

「おい、百瀬がいないぞ!」

後輩の一人が叫ぶ。よくよく見てみると人数が減っている。
先程の女の話を総合して考えれば彼らにも何か目的があり、ただ殺すためにここに連れてこられたわけではないはずだ。
だが、部下の男たちはどうやら准教授を《喰った》らしいことも分かっている。ここでは人の命は自販機に入れる小銭程度の価値でしか扱われないという予感が脳内でアラートを鳴らす。
どれくらい時間が経ったのだろうか。目覚めてからは一時間くらいに思えるが、ここに監禁されてから考えると半日以上が経過している。その間飲まず食わずではそろそろ空腹感が無視できなくなってきた。

「そろそろお腹減ってるかと思って持ってきてあげたわよ。感謝してよね。」

見計らったかのように白衣の女が部屋に入ってくる。その手にはかごがあり、中にはサンドイッチが詰められている。

「そんな事より百瀬くんはどこへ行った。」

ここに至ってもまだ威厳を保っている教授が皆を代表して女に問う。
あの極限状況で冷静さを失っていなかったのは尊敬に値すると後になって思った。しかしその尊厳はあの場では何の価値も持ち得なかったのも今となっては理解できてしまう。

「ああ、被験体一〇〇のこと? 彼ね、才能がなかったみたい。覚醒してすぐ気が狂っちゃったからね……」

女が一旦ためて教授の目を覗き込むように見る。

「殺したわ。今頃はあの二人のおやつにでもなってるでしょうね。」

後輩の内一人が怒りのあまり女に詰め寄ろうとするが、やはり体に触れる前に倒れ込み口からは泡を吹いている。

「理性を失った者なんて実験動物以下の消耗品でしょう?」

倒れ込んだ後輩には一瞥もくれずに教授への説明を終える女。そしてゆっくりと手に持ったかごを掲げる。

「お腹も減ったでしょうし、この辺りで一旦食事にしましょう。」
「毒でも入ってるんじゃないだろうな?」

食事がテーブルに置かれるより早く、左京先輩が棘のこもった目線で女を威嚇する。だがそれも全くの無意味だった。

「毒? 勿論、入ってるよ。」

さも当然のように毒入りを宣言してくる。圧倒的優位ゆえの種明かし。こちらが人間である以上「だったらいらない」とは言い続けられない事が分かっているがための蛮行。

「毒って言っても死にはしないよ。どちらかと言うと幻覚剤みたいなもの。それぞれ違う方向のトリップができるわ。」

実験動物(モルモット)。それが僕たちに与えられた役割だと容赦なく突きつけられてくる。
しかし毒と分かっていてその食事を手に取る者はいない。皆顔を見合わせるばかりで動こうとはしない。

「食べないの?せっかく持ってきたのになあ。ま、お腹すいてないんだったらそれでいいのよ。それならそれで被験体一〇一を決めないとね。サンドイッチ食べてくれた人は後に回してあげてもよかったんだけど。じゃあ次は……」

女の目が順に僕たちの顔を見ていき、一人の後輩のところで止まる。

「た、食べます! 食べます!」

得体のしれない実験にかけられ殺される恐怖が勝ち、自ら毒に手を伸ばす後輩。それを満足げに見た後で視線がすぐ横の別の後輩に移る。同じく毒を口にする。
今や部屋は恐慌に包まれていた。ただ、処刑台への順番を後回しにするためだけに皆が人間の尊厳を捨て、毒物を貪り食っていた。もちろん、僕も。

「おいしかったかな? 私が作ったのは中身(毒物)だけだけどね。」

視界が歪む。思考がぼやける。早くも毒物が効いてきたのか立っていることも覚束ない。
隣で座っている後輩は犬のように舌を出して涎を垂らしている。その目はこの世のどこも見ていない。

「うわーっ! やめろ! やめろぉー!」

突如叫びだしたのは左京先輩だった。両手を体の前で振り回しながら後ずさっていく。そのまま部屋の隅まで行ったかと思えば激しく手と頭を振り始めた。

「あらあ、いい声で啼くじゃない。君、美味しそうよ。」

そう言って女はゆっくりと左京先輩に近付く。毒物の影響かまともに動けるものはおらず誰一人止めることはできない。
なんとか歪む視界の中心に女を捉え、その成り行きだけでも確認しようとする。
女が白衣の中からメスを取り出し振り上げる。その刃物をもって先輩を傷付けるのかと思ったが、実際に起きたのはそんな生易しいものではなかった。
女がメスを自らの掌に突き立てたかと思うと、女の全身が金属の鱗のようなもので覆われる。さらにはその頭上に手術室のような照明器具が浮かび上がる。
いや、違う。目だ。そこには照明の代わりにびっしりと目が詰め込まれ、憐れな犠牲者の最期を見届けようとしている。

「いいよ、その顔。もっとよく見せて。」

そう言いながら先輩の腕を掴むと信じられない力で捩じ切る。そしてそのまま千切った腕を口に入れ、咀嚼する。
声にならない悲鳴を上げる先輩と恍惚の表情を浮かべる女。どこまでが薬物の見せた幻覚か分からないまま、僕の意識はそこで途絶えた。

目覚めた時、部屋には四人の男と部屋の隅に残る染みとそれとは別に人が引きずられたような跡があった。
また一人、減っている。残された人間にできるのは身を寄せ合って震える事だけだった。
しかし彼らの無慈悲な実験スケジュールに遅滞はなく、また一人また一人と扉の向こうに引きずられていく。そして誰一人として帰ってはこなかった。
恐怖、否定、懇願の叫びが僕の身体を通り過ぎてはやがて減衰する。僕の精神も限界だった。もう、いっそ、早く、殺してくれと願った。
そして気づけば、僕は一人で部屋の隅にうずくまっていた。

「お前で最後だな。せいぜい雑魚ジャーム(うまい肉)になって愉しませてくれや。」

いつぞやの背の低い巨腕の男が話しかけてくる。いつから目の前にいたのだろうか、もはやそれすらわからない。というよりもどうでもいい。これから自分が死ぬということをきちんと受け止め考えられるほど人間は強くない。
促されるままに立ち上がり歩き出す。そのまま部屋を出ようとするが、扉を抜けたところで重力の方向が変わったかのような感覚にめまいがして転んでしまう。

「おら、さっさと立って歩け。そんな時間稼ぎをしても無駄だ。」

言われるがままに立ち上がり歩みを再開する。
実験室と書かれた扉を開ける。処刑室の間違いだろうと心の中でつっこんでおく。僕にできるのはせいぜいそれぐらいのものだ。

「やあ、私の実験室へようこそ。被験体一〇八番君。そこにかけ給え。」

否応なしに診察椅子に座らされ手足を拘束される。元より相手は人の力では太刀打ちできない存在だ。抵抗せず椅子に縛り付けられた状態となる。
何人もの先輩や後輩がこの椅子の上で死んでいったのだろうが、それを感じさせぬほどぴかぴかに磨かれているのが唯一の心の救いだ。命の方も救ってくれるなら生涯椅子を粗末に扱わないと誓ってもいい。

「これから君にはいくつかの試験を受けてもらうわ。レネゲイドの力が目覚めれば合格よ。」

不合格であった場合の話はない。話す必要はないし、その場合には僕はもう話ができる存在としてはこの世にいられないという単順な理屈だろう。

「さあ、今回はどれからいこうかしら。とりあえずさっきのアレの処分もかねて憤怒かしらねえ。」

そう言うと女の目の前にワイヤーでギチギチに拘束された中年男が出現する。男が拘束から逃れようともがき、その顔がこちらに向く。

「ええ、君のところの教授よ。今となっては"元"だけどね。こんな狂った血吸いコウモリ(ブラム=ストーカー)になっちゃあ、大学に居場所なんてないでしょうねえ。可哀想に。」

それは僕の知る教授とはかけ離れた存在となっていた。穏やかだった顔は暴力を求める貪欲さに支配されており、その舌は吸うべき赤き液体を探して虚空を蠢いている。

「これが力に溺れ、我を忘れた人間(ジャーム)の末路よ。なんて、そんなことはどうでもいいの。」

女がメスを教授の首元に突き立てる。メスそのものは謎の力が体内から押し出し、さらには流れた血すら這うように元の傷跡に戻っていく。
しかし異変はその直後に来た。刺された部分から皮膚が赤黒く変色し爛れていく。それと同時に教授がのたうち回るがワイヤーがその動きを許さない。
しかし一方で爛れた皮膚から滲み出した血が重力に逆らって女の顔を襲い、その頬を切りつける。

「もういいや。殺って。」

その傷を手で触れて確認した女の顔から表情が消える。
女の声に反応して部屋の隅で待機していた男が瞬時に飛びかかる。その放物線が頂点を迎える頃には男の両腕はゴリラのそれへと変態を遂げており、着地の衝撃を単順な打撃力としてその先端へと伝える。すなわち教授の頭部に。

「え……うわぁぁ!」

最初何が起きたかわからなかった。ただ、教授の頭があった部分に組み合わされたゴリラの両手が入れ替わりに出現したのかと思った。
だが、男がその腕を振ることで僕の顔にかかった血が、堰き止められていた理解を氾濫させた。

「あんたのやり方は品がないわね。ま、いいや。後片付けておいて。それにしても君、いい声で啼くのね。美味しそうよ。」

ここに来てから目の前で人が死ぬという事は何度かあった。しかし人が死ぬところを見せつけられたのは初めてだった。もはや麻痺していたと思っていた恐怖心が再び息を吹き返し、ほとんど過呼吸状態となる。

「もうちょっとその顔見てたい気持ちもあるんだけど、次いくね。君、注射は平気?平気じゃないほうが私は愉しいんだけど。」

笑顔を浮かべた女が太い針のついたチューブを持ち出してくる。そして消毒もなしにいきなり腕に針を刺され、赤い液体が流れていく。
首の断面全体から血が流れている教授の死体に比べればどうということはないのだが、生命が流れ出す感覚にいよいよ死を考える。

「ついでに血液検査もしてあげる。教授みたいな血吸いコウモリ(ブラム=ストーカー)だったら何か使えるかもね。」

チューブの先からいくつかの蓋付き試験管に血を入れる。その後は大きなビニールバッグに溜めていく。

「で、どう?"赫騎士(ブラッドシャワー)"この子の感情は?」

女が試験管の内の一本をいつの間にか現れていた助手らしき青年に渡す。青年はその整った顔を崩すことなく、蓋を開け中身を飲み干す。

「恐怖、困惑、諦念。憤怒には程遠いですね。」

国語の教科書を読み上げるかのような単調な喋りで青年が女に報告する。
言い当てられた感情はまさしくその通り。今の僕に怒りを覚えるだけの体力・精神力など残されてなどいない。「殺してくれ」と叫びださないのは、そんなことをしたら目の前の女は喜々として「死ぬよりつらい目」を用意してくるであるうことがうっすらと分かっているからだ。それも今や血を抜かれ過ぎて叫ぼうにもまともに声も出せない状態となってしまったが。

「ふうん。案外つまんないのね。"赫騎士"、血を頂戴。」

静かに「はい」とだけ答えた青年が自らの手首を掻き切って血を滴らせる。その数滴をシリンジに取り、僕の血で満たされたバッグへと混入させる。
僕の血だったものがただの薄汚れた赤黒い体液へと変わる。ひどい吐き気に襲われるが目の前の光景のせいか、血を抜かれすぎたせいか何も分からない。

「あらあら大分貧血気味ね。血を戻さなくちゃねえ。」

そういうと女はバッグを支柱に吊り下げ僕の目線の少し上で固定する。
こんな時でも重力は変わらず万物に作用する。その穢れた血が僕の中に少しずつ戻ってくる。いやだ、あんなものもう僕ではない。
暴れ出そうとするが四肢はガッチリと固定されており、ただ頭を振って現実を否定することしかできない。

「これが感染よ。どうかしら?直接採って確かめていいわよ。」

言葉の後半は助手の青年に向けられている。指示を受けた青年が僕の右側に立ち、顔を近付ける。次の瞬間、首筋に噛み付かれ痛みが走る。逃げようとする動きで血が青年の白い顔を染めていく。

「やはり駄目ですね。一度殺して私が《抱擁》しましょうか?」

青年の口からなんの躊躇いもなく殺すという言葉が出る。ついにその時がきたようだ。もうそれならそれでいい。

「そうね。何度か繰り返せば目覚めるか、ジャーム化するか、どちらかはするでしょう。」

待て。待て待て待て。
"何度か繰り返す"だって?殺す事を何度も繰り返すなんて不可能だ。不可能なはずだ。
一度だけ死ぬ諦めはついているけど、何度も死んだり生き返ったりする諦めなんてつくはずがない。

「助けて! それは嫌だ! 死ぬのは一度で十分だろう!」

耐え切れず懇願の言葉と涙が溢れ出す。

「今の会話で自分が"何を"されるか察したのかい。賢いねえ。じゃあ早速一回目死んでみようか?」

女がメスを持つ手に力を入れる。今回は毒ではなく物理的に殺害する気だろうか。

「チーフ、ちょっと待ってもらえますか。」

その行動を止めたのは助手の青年だった。
あからさまにムッとした表情で女が青年を睨む。犯人を指差す直前で推理ドラマのチャンネルを変えられたようなものだろう。
青年はおそるおそるもう一度だけ僕の血を舐めて、そして告げた。

「この被験体、そもそもレネゲイドに感染すらしていません」

「この人類の八割が潜在的感染者という時代に、感染すらしていないって使えないねえキミってやつは。それはそれとして一度死んでみようか。」

何やら予定外の事態が起こったが僕が死ぬ運命には何の影響もないらしい。
何度も殺されては生き返らせられるくらいなら教授のように理性を失った化け物にでもなったほうがましだ。死、生、死、生、死。自分の命をちぎって花占いをやる日がくるなんて夢に思わなかったし思いたくなかった。

「た、大変です。"黙の颶風"が暴れてます!」

僕の命のやり取りに割り込んできたのは先程教授だったものを引きずって廊下へと消えていった背の低い男の声だった。
体が固定されているためよく見えないが、その顔は先程までの下卑た笑みではなく、焦りと怯えが主成分となっている。それだけで暴れているという何かが余程危ないものであることが分かった。

「どうせいつものぐずりでしょうよ。餌はちゃんとあげたの?」

女の方は怯えた風でもなく愛玩動物(ペット)の扱いでも教えるような呑気さがある。

「そ、それが餌やり係を喰っちまって! う、うわぁ!」

どうやらその危ない存在がこちらに来たようで、男は叫ぶと部屋の中に入り"赫騎士"と呼ばれていた青年を盾にしようとする。
青年はそれに一瞬だけ軽蔑した視線を送ると、女の方を見て指示を待つ。僕は必死に首を伸ばしてやってくるものを見ようとする。
そうしている間に扉を蹴破って"黙の颶風"と呼ばれる存在が現れた。

「手があるんだから扉くらい手で開けたら?」

この状況においてもなんら動ずることなく女はまるで聞き分けの悪い子供を相手するように話しかける。
しかし発言は完全に無視されそのまま女の方へ向かってくる。途中、目障りだったのか器具の載ったワゴンを蹴り飛ばす。

「うるせえ」

彼は女の間近まで行くとその顔を睨みつけ一言だけ返事をした。それから僕を値踏みするような目で観察する。
そこでやっと僕は彼の顔を正面から見ることができた。
ぱっと見の印象は「なんて色素の薄い人なんだろう」だった。その肌の白さは、何年にも渡り深く深く沈殿した隈と口元から滴る今まさに飲んできたと言わんばかりの真っ赤な血によってより一層引き立てられていた。

「あら、もしかしてこれが欲しいの?」

女が僕を指差しながら彼に問いかける。その顔に喜悦が浮かんでいるのが分かったので僕が酷い目に遭う運命に変更はないようだ。

「酒でも薬でもいい。なんかよこせ。」

彼はイライラした調子で女に詰め寄る。息は荒く、その手は何かを求めせわしなく動いている。語気の強さからいつ爆発してもおかしくはない。

「あいにくだね。どっちも切らしててね。だから代わりにその子をあげよう。ま、悪くない顔だろう?」

その子、とは僕のことを指すようだ。餌として食われるのか、サンドバッグとなるのか、痛くない方を希望したいがそれがどちらなのかも分からない。

「チッ……このクソが。」

そう言うと彼は僕の真正面にしゃがみこみズボンを脱がせ始める。

「さぁて、ここからはお楽しみの時間だから君らは出てった出てった。」

女が残りの男二人に部屋からの退出を促す。背の低い方はこれ幸いとさっさと出ていってしまったが、青年の方は不満があるようで食い下がる。

「しかしヤツと二人きりは危険ではありませんか?私はこの場に残ります。」

そんな会話が上方で繰り広げられる中で、僕はベルトを引きちぎられていた。彼は手に沢山の怪我をしておりうまく動かせない指があるようだ、などと他人事のように観察していた。

「大丈夫だよ。それとも君もあそこに混ざりたいのかい?そういうことならここに残るといい。」

何が楽しいのか今まで見た中で一番の笑みで女が僕たちを指差す。

「殺すぞゴミが。」
「ふざけないでください。」

目の前の彼と横に立つ青年からほぼ同時に返答が出る。互いに殺意に近い感情を持っているのは間違いない。青年は足早に部屋から出ていく。
そしてついに僕のズボンとパンツが剥ぎ取られ下半身が露わになる。太腿なら大きな血管があるからすぐに失血死するだろうかなどという現実逃避したのもつかの間、彼の美しい唇が僕の股間を食いちぎった。

「痛……くない?」

わけではなかった。
先程までの荒々しい息遣いからは想像できないほど繊細な動きで僕のモノを舐めあげる。何がおきているか全く意味がわからないが、それ故に目の前の感触に敏感になってしまう。見る間にその膨張は限界へと達すると奥から生命の欠片がこみ上げてくる。

「うっ……あっ……!」

僕は気を失いながら達していた。

「やあ、お早いお目覚めでなにより。天にも登る気持ちだったようだね。」

目を覚ますと同時に女が話しかけてくる。
気を失う前に比べて着衣が少し乱れており、頬も上気しているがそんな事はどうでもいい。左右を見回すがもう一人の彼はこの場にはいない。

「ああ、颶風のを探しているのかい? どうやら君のお味にご満足頂けたようだったので大人しく部屋(オリ)に戻ってもらったよ。」

颶風の、というのが彼のコードネームなのだろうか。どうやらここでは皆コードネームで呼び合っているようだ。

「私は"ネフシュタン"、ここでバイサズオーヴァードというものについて研究をしているわ。さっき乱入してきたのが"黙の颶風"、私のかわいい愛玩動物(オモチャ)ね。そして君はその餌係としてめでたく採用された。これで当面の命の保証はされたんだ、喜んだらどうだい?」

餌係? 実験動物の次は小学校の飼育委員か? ふざけるな、と思い立ち上がる。その事で初めて手足の拘束が解かれている事を知る。

「詳しい事を説明する気は特にないけど、まずはその立派な下半身をしまったらどうだい?」

僕は慌ててズボンを上げながら、餌係という言葉の意味について考えていた。その謎は翌日彼の部屋に行った時に知る事になる。餌とは僕の精力そのものであったのだ。

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