一条、煙(インク)の薫りが立ちのぼる。
燃える穂先、僅かに細められた目、少しばかりの疲れを滲ませた表情。
ゆっくりと吸い込み、吐き出す。近く、そして遠い、何処かを見つめるような瞳。
真っ白な部屋。汚れ一つない――比喩ではなく――壁紙、椅子とテーブル、それだけで構成された殺風景な部屋。
他には何の匂いもせず、気配もしない。
東京近郊、M市総合病院。巨大な敷地と最新の設備を有する医療施設の一角に設けられた、施設比で言えば小さな、個室と呼べばやや広い白一色の空間。
そこに一人の男が座っていた。ロングコートにビジネスバッグ、くたびれた気配、人混みに紛れれば数秒と立たず見失ってしまいそうな男。
煙は天井に設けられた空調機に吸い込まれていく。或いはくゆった先、壁面へ、落とされる受け皿上の灰はその皿の中へ。
全ての痕跡を食う部屋――国内でも数少ない、バイサズに“捕食”を行わせるためだけに設けられた空間。
UGN傘下、M市総合病院はそういう場所だった。「彼ら」を受け入れるためのーー流通を充実させ、職員に彼らに関わる情報の統制と周知徹底を図り、こうして入院者に“捕食”をさせるための特別製の部屋をも整えた場所。
そこに男がいる理由は一つだった。
言うまでもなかったが、あまり気の進む仕事ではない。
今回のようなケースでは、特に。
だが、誰かがやらなければならない。
男ーー永山栄は“ 食事”を終えると、僅かに燃え残った事件レポートーーその圧縮された残片を灰皿に食わせ、完全消臭・殺菌を行う風に包まれながら部屋を出た。
深夜ーー既に消灯され、暗くなった廊下。
長く続くその通路を微かに靴音を立てて歩き、奥へと向かう。
特別収容患者棟――緊急搬送されたバイサズを安定させるための、更に言えば暴走した場合隔離するための新設棟、その最奥。
たった一つ、灯りが未だ煌々と点されている個室へ。
目を覚ますと、そこは真っ白な空間だった。
室内を明るく照らす新品のLEDライト、洗い立てらしい間仕切りカーテン、
些かの経年も感じられない天井、そして最新式と思しき何かの機械。
ややあって身じろぎした違和感で気がついた。腕から管と何らかの計測器らしきコードが伸び、
視界内で何らかのリズムを刻む機械と、そして点滴に繋がっている。
機械には何かの数値が示されている……“EL”の接頭辞。何を意味するのかは分からないが、30幾つの辺りでほぼ止まっている。
ふと、脳裏に朱い幻影がよぎる。赤と黒、塗れた薄桃、差し込まれるように閃くよくわからない光景の断片。
そしてそれら全ての統合から立ち上がろうとする、感覚の全てを塗り潰すような――。
『大丈夫かい?』
その一言で君は我に返った。
カーテンの向こうに、人影が見えた。
声はどうやらそこから発されていた。
『入っても構わないかな?』
声が落ち着いた調子で問う。
君が是と答えると、ゆっくりと間仕切りが開き、
穏やかな表情の男が一人、姿を現す。
『どうも』
奇妙な声の男だとそこで気付いた。
自然、喉に目が向かったかもしれない。
男は、
『ああ、事故でね。人工声帯を付けてるんだ』
と何でもないことのように答えた。
『一応、確認するけれど……君は、自分がここにいる理由を覚えているかい?』
先ほどのようなフラッシュバックはもう襲ってこなかった。
むしろその全てがどこか開いた暗い虚無の穴に流れ、失われていくのが分かった。
惜しい……と君が思ったかはわからない。
何しろろくなものでないことだけは、先ほどの一瞬の出来事だけでもう十分すぎるほど感じ終えていたから。
君が首を横に振ると、男は頷く。
『そうかい。それじゃ、いきなりで悪いんだけれど、その「理由」について……説明させてもらえるかな』
どれだけ寝ていたのかはわからない。外の時間もわからない。
しかしとりあえず、眠気はなかった。
君は彼の言葉に頷くことにする。
永山、と名乗った男は語った。
世界の裏側、日常の影に隠されていた事実について、
世界で今も起こり続けている様々な事件とその影響について、
他ならぬ君を見舞った不幸が、その一つであることについて。
『本当ならここには僕と併せてもう一人、説明のために立つ予定の人がいたんだけどね……』
真っ暗な廊下を見やり、永山が言う。
『N市……そう、君が本来住んでいたところだ。そこの支部長が来る手はずになっていた。
君が望むなら、彼女が長を務めるUGN支部が、君の日常を支えることになっているから』
だが、来られなかった。未だに続く事件の災禍が、彼女らに街から離れることを許さなかったのだ。
『そう、それで……僕は君に、確認しなくちゃいけないことがある』
変わらず穏やかな、だが奥に何か芯のようなものを秘めた目が、君を見上げる。
『君は僕に食欲を感じるかい?』
不意の質問に、君は心情を隠すことが出来ただろうか。
いずれにせよ、彼は言葉を続ける。
『検査の結果、厄介なことが解ったんだ。君は、オーヴァードの中でも一部の人間だけが罹患するもう一つの病を発症している』
双極性衝動乖離障害。別名、食人の病。
『僕は君に聞かなくちゃならない。君がこれからどうするかを』
日常に留まり、衝動を呑み込み人間として生きていくか。
日常を離れ、衝動と向き合い、戦いの中を生きていくか。
『嫌な表現になるけれど……君には素質がある。そしてUGNは、君のような力の持ち主を求めている。
さっきもちょっと言ったけど、手が足りていないからね』
今や永山の言葉は一言一言が重みを帯びていた。
調子は一切変わらない。それでも、淡々と告げるその事実の苦みの一つ一つを、
彼と、彼の仲間たちが引き受けているのだということが、
彼が最初から変わらず発散していた匂いから感じ取れた。
『だから……選択肢を提示しておいて何だけれど、僕はUGNと、今現場に立っている幾つもの隊の人たちを代表してお願いする。
君さえよければ、僕たちに力を貸してもらえないか』
考える時間はもちろん与える、と永山は言った。
必要な資料の融通も、例え協力しないと決めたとしても一切不利益は生じさせないとの確約も。
永山が出て行った後、部屋には沈黙が降りる。
真っ白い部屋の中で、機械だけが微かにリズムを刻んでいる。
君がどのような決断を下し、如何様な戦場に下り、
どのような仲間と、どのような敵と戦うのか、或いはそうしないのか、運命はまだ何も決まっていない。
君が今は思い出せない――思い出すべきかもわからない過去と対峙するかどうかも。
全ては君の選択に委ねられている。
溜息を一つ吐く。
なすべきを終え、一人になった永山の顔に、深い影が降りる。
現場では件の彼/彼女を見舞った一件についての捜査が未だに続けられている。すぐに自分も戻らなければならない。
背後の病院を一瞥し、重い足取りで、永山はその場を去った。
彼と、彼と志を同じくする者たちが背負う重荷と業、そこに新たな一つが加わったことを自覚しながら。
歩きしな、加工器から取り出した調査記録に火を付けて吸った。
微かな灯の揺れ、インクの燻りと共にゆっくりと鼻腔を満たした煙からは、血と爪と叫びの匂いがした。
――その音は真っ直ぐに。
遠く雲の向こう、燦めきわたる空の向こうまで、ただ真っ直ぐに。
打ち合うほどにはっきりとしていく戦力差。
それでもなお食らいついてくる、壊れかけた自分からしても正気を疑うような相手の動き。
「俺がお前に教えてやる。お前が大事なことを、何一つ分かっちゃいないんだってことを」
リフレインする言葉。
「ま、だまだぁ――!!」
かち合い続ける拳と拳。
――聞き覚えのある音。
捻りも衒いも何もないそれ。
呆れるほどシンプルで、けれど力強く、ただ一点だけを仰ぎ、他の何をも見ず放たれる渾身。
その馬鹿みたいな一撃には覚えがあった。
その奇跡みたいな瞬間には覚えがあった。
「クソが……!」
その事実が拳を鈍らせる。一合ごとに呼び起こされていく記憶が殺意を削り取る。
「まだ!!」
それでもこの雑魚を仕留めるには十分過ぎる威力と速度。にも関わらずまだついてくる。
ひび割れながら。砕け、欠け落ち、燃え崩れそうな身体と心を、なお執念という炎にくべて食らいついてくる。
《違うぜ、トウゴ》
音がなお続く。一合。一合。一音。一音。
帰るものとてないはずの奈落の底へと飛び入り、声を引き連れて戻ってくる。
《こういうのにはな、もっと違う言い方ってのがあるんだよ》
ヤなヤツだな、と笑いながら言ったあいつの声が戻ってくる。
《こういうのは――》
「負ぁぁぁけぇぇぇるぅぅぅぅかぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「ぐっ……!」
《“情熱”ってんだ。よく覚えとけ、相棒》
呆れるほどの戦力差。見え見えの挑発。自分をこの場に押しとどめるための言葉。
でも――それでもそこに、この仕組まれたかのような言葉はしかし、純粋に真っ直ぐだと。
背負った策謀、役割、それ以上の意味があると、真っ直ぐこちらを見て告げる少年の目。
幼馴染みがお前に本当に願ったもののことを、教えてやれるのは俺だけだ。
「他の誰でもない俺が、お前に叩き込んでやるよ。」
空を掴む。そこに確かに握りしめられるもの――少年の信念。
願われた思いが叶うこと。失われた空白に、埋葬されるべきものが戻る事。
夢を叶えるために、口にする言葉。
「――変身」
ここで変われ、幸せになれなかった運命。
教師・降旗佳人の裏の顔は、独力で動き、オーヴァード及びジャームの起こす事件に間接介入する情報屋である。
代価は相応、求めるのは事件の解決。
時には鉄火場を潜りながら、ドライとウェットの両面を使い分け、必要な情報を探り出す。
それは誰にも縛られない道行きのはずだった。一人の少女に出会わなければ。
「願乏器《ラックオブラック》」。“願いを叶える”力を持つとされる彼女の行く末を巡り、ケダモノたちのなりふり構わぬ争奪戦に巻き込まれる降旗。
陰謀に食い散らかされんとする少女を前に、男は柄にもなく自ら打って出る覚悟を固める。
「一つだけ確かなことがある。どういう存在に生まれようと、知り、選ぶ権利が君にはあるということだ」
四面楚歌の突破戦。敵対勢力急先鋒の撃退に成功し、UGNとの交渉に成功すればクリアとなる。
「願乏器」は降旗の下にいることを望み、降旗には教え子兼助手が一人出来ることになる。
「ここの店はいいんです。調理に何の感情も籠もっていない。
ただ求められた物を作り、出す。情熱も倦怠も悲嘆も諦めもない、機械のような手さばき」
淡々と食事を口に運びながら、向かいに座す彼女はそう言った。
「値段は少々張りますが、食べ支えるつもりです。そういう仕事をする人間は少ないですから。
貴方も手を付けたら如何です?冷める前に頂くべきですよ」
食器を手に取り、一口目を食べ下す。飾り気のない盛り付け、美味しさ。
何ら目立つものはないが、今日も、明日も、恐らくきっと変わることのないだろうと思える味。
工業品とは違う。けれど確かに、そこにはある種の切断があった。
獲物の死を契機とする情念の連繋。それを全て削ぎ落として、一つの食物に仕立て上げる技術。
或いは、零度という地点に限りなく近い、信念、とでも呼ぶべきもの。
――折角ですから、食事をしましょうか。
出会った彼女の肉の匂いは、どこか通常のそれと異なる香りがした。
店から店へと移る足取りの中、雑踏で振り返って見つめたのは、僅か一、二秒のことだったと思う。
その短い間に、ごく自然な仕草で彼女は振り向き、こちらに視線を合わせたのだ。
彼女は少女を連れていた。虚ろな目で、食事を口にする。
この出会いに意味があるのは明らかだった。彼女は明らかに尋常の枠から外れている存在だった。
共にいる少女も。
意図はわからない。しかし尋ねるべきだった。自分が今探し求めている場所について。
けれど言葉が出てこなかった。彼女の言葉を待つべきだという思いがした。
或いは、聞きたい、という思いが。
「貴方は、食事という行為に何を求めますか?」
彼女は静かに食事を摂りながら、そう問いを口にする。
「食欲の充足?栄養の摂取?食卓を共にする人間とのコミュニケーション?
どれであっても構わないと私は考えます。
それは、人間という社会性を武器とする動物にとって本質的な食の目的であるからです」
食器の立てる音は微かで、無駄がない。小さく切り分けた皿の上の食物を、彼女は一つ一つ、丁寧に取り込んでいく。
「ですが、例えば、そのどれでもなく。咀嚼し、呑み込む。その仕草はごく自然で、自然そのもので、
「獲物を踏みにじる。それは動物だからです。
獲物の幅を広げる。それは人間だからです。
人間でなくなることを防ぐために生あらざるものに手を伸ばす、それは獣の所業です」
故に、何か見透かされた気がした。
自分の中にわだかまり続けている、説明の付かない感情を。
食事を終えると、彼女は口を拭き、一枚のカードを差し出す。
記された店名。リストのどこにもなかった名前。
彼女が去っても、近江は動くことが出来なかった。
卓上の食事は熱を失い、“食事”としての美貌を、無貌を、失い始めようとしていた。
その部屋に入った瞬間、形容しがたい感覚が胸を突いた。
分厚く着込んだ服を通り抜けて、心臓に、身体に、直に響くような、包み込まれるような。
反射的に防御姿勢を取りそうになった。身を翻しその場から離脱したい衝動に駆られた。
自制のために奥歯をかみしめ、避けられず表情が強ばった。
くすり、と聞こえた声は、その表情を何と解釈したものだったか。
「こちらへいらっしゃい、私の新しい子。大丈夫、ここには何も恐ろしいものはないわ」
一瞬吹き飛びかけた“天野美津”のカバーストーリーを即座に思い出す。
“家庭環境に問題あり、名門女子校に通うが精神の均衡を欠き、安らぎを求めて噂の諸元へ”
若干自分に似た経歴/設定――救済なんぞ求めるものかと業腹だった代物、しかし化けの皮が剥がれかけたこの瞬間には救い。
「は……はい」
声に滲ませる微かな警戒と慄き。演技の必要はあまりなかった。
一歩一歩、進むほどに強くなっていく包含の感触に、美津は実際に戦慄した。
(当たり……)
心中で口にすることで、辛うじて内心の安定を保つ。
「あなたをここへ招いた別の子供たちからお話はもう聞いています。今まで、苦しかったのね」
真綿で首を絞められるような声。そう感じたのは自分の防衛本能のせいだと、気付いたのは目を伏せた僅かに後。
――暖かい。
心臓が脈打つごとに血液が身体に送り出されていく。
その一打ち、一打ちが暖かい。熱を持っている。
本来なら四肢の末端で行き詰まり、再び己一人の胸へと帰るしかないはずのそれが、外のどこか、同じく脈打つ熱源に繋がっているという感覚。
熱――存在。誰かが自分の傍にいる、寄り添っている、包み込んでいる、という感覚。
そのことをもう知っていると言わんばかりの態度で――実際、“このひと”はもう知っているのだ――囁くように告げる声。
「もう心配はいらないわ。あなたはもう他の誰でもなく、私の子。ここにずっといていいの。
これから一時傍を離れることがあっても、あなたの帰る場所はもうここにある。
だから安心なさい……もう恐いことなんて、辛いことなんてあなたには何もないの。
もしそんなものが現れたら、すぐにここに帰ってくればいいのだもの」
吐き捨てそうになる自分、腸の煮えくりかえる自分を強く感じた。
これが怪物であることは言うまでもなく明らかだった。
ここで殺してしまおうと構わないはずだという激情が波のように全身を襲った。
しかし現実の自分はむしろ脱力していた。柔らかな手つきで抱きしめる“そのひと”の胸に身体を預けていた。
言いようのない熱が身体に染み込む。汚染するように心を平らかにし、欠けていたものを充足させていく。
「……はい」
喉は勝手に演技を続けていた。演技だと信じたかった。
そうと信じる以外にこの真綿の絞首刑から逃れる術はなかった。
時間の感覚が薄れゆく中で、美津はすぐ傍にあるもう一つの心臓の鼓動の音を聞いていた。
日常を生きたい少年×日常なんて欲しくないと言う少女。
訓練も、料理も、隊の誰かと話すのも、誰かと-自分自身の日常を生きるため。
今は思い出の中にだけある“近江有”の日常――この場所でもう一度。
戦いも、任務も、何もかも、自分で生きていくための、生き残るための手段。
立ち止まる自堕落なんていらない。そんなものに意味も見出さない。
私の人生に“誰か”なんていらない。そんなの、あったところで何の価値もないんだから。
交わらずに通り過ぎるはずだった線の交錯。少年とハリネズミの、ついたりつかなかったりの関係。
「しっ!」
艶めく長い黒髪が、舞踊の如く飛んだ主の蹴り筋に合わせ、曲と大きく揺れた。
息つく間もなく続いた五合、十合の打ち合い。
少女の放ったハイキックが少年の頭部を直撃し、それは決着した。
初めからそうと企てられていたかのような、急所を守り耐え続けていた少年の、構えが揺らいだ一瞬を狙い澄ました一撃。
一方的な勝負だった。防戦一方の少年が手も足も出ずにやられた形。
変身前のバイサズとはいえオーヴァードだ。まして鍛えているとなれば威力は常人のそれを上回る。
昏倒一歩手前の一撃を受け、倒れ込んだ少年。
勝敗は誰の目にも明らかだったが、それでも立ち上がろうとしながら、震える声を上げる。
「ありがと……もう一回、いいかな」
その言い草を聞いて、少女――楚々とした外見、反して眉を持ち上げるその表情は性格を表す隠しもしない呆れ顔――天野美津は腰に手を当て、見下ろしながら溜息を吐く。
「ほんっとにダメね、あんた。何もかもダメダメだわ。そりゃギリギリで戦わなきゃいけない場面だってあるけどね、勝てない相手にふらふらの状態で挑んだって得るものなんて大してないわよ。それより退き時を覚えて潔く仲間に頼る、そういう判断を覚えた方が千倍はマシよ。頭使いなさい、頭」
要するに、もう休め、との宣告。
直裁にして婉曲なコーチからのコメントを受け、大人しくへたり込む少年――近江。
余程限界に来ていたのか、そのまま眠るように気を失ってしまった。
「あーもう……」
再び深い溜息を吐くと、美津はインカムを通して医務室職員に連絡を取り、観戦者――黙して語らず、ただ二人の訓練を見ていた永山の方を振り返る。
「いつまでこいつに付き合わなきゃいけないんですか、私」
憤懣やるかたないといった声音。永山は微かに苦笑しながら、人工声帯から落ち着いた声を紡ぐ。
『少しずつ成長はしているじゃないか。君の的確な指導のお陰だよ』
「根本的なところが分かってないやつに何言っても仕方ないじゃないですか」
“人間の戦い方”――変身後の自分の特性と噛み合わない理性の技法を覚えようとしていることを言っていた。
「こいつは怪物だから強いんであって、中身はただの一般人でしょう?一から使い物になるまで鍛えようなんて、時間の無駄でしかないですよ」
『罪悪感なら覚えなくていいと思うよ』
それなりに付き合いの出来てきた――わかりにくいようで実はわかりやすい少女に永山が言うと、美津は眉間に強烈な皺を寄せ、緘黙した。
『彼は本当に望んでその“無駄”を引き寄せたいと思っているんだ。それは、元一般人だった僕が保証する』
「……チルドレンの私には分からないって言いたいんですか」
『そうじゃない。君は自分の力を自分のものとして扱えている――それを衝動に任せることでしか表沙汰に出来ないっていうのは、辛いことなんだよ。特に、彼のような衝動の持ち主なら余計にね』
「……」
『……彼、君のこと結構好きだと思うよ』
壊れた機械のように動かない――抑制されたレネゲイドが緩やかに修復を開始しているだろう、気絶した少年に視線を向けながら、永山が言う。
「は……!?ちょ、何言うんですかいきなり!?」
『ああ、変な意味じゃなくて』
掠れた笑い声を漏らしながら目を細める永山。
『尊敬してるし、感謝してるってことさ。君が単に仕事としてだけじゃなく、彼をどう鍛えるのが一番いいか、考えながらやってるってことは伝わってるよ』
「む……」
再び、今度は視線の向けどころが分からなくなったように目を逸らす美津。
『だから、もうしばらく彼に付き合ってあげてほしい。君から見たら遅いようでも、彼は相当の早さで、必要なものをかき集めようとしているから』
「……分かりました」
ストレッチャーを持って現れた医務班職員に彼が抱え上げられていくのを見ながら、美津が呟くように言った。
その声音からは、先ほどまであった険のようなものは失われていた。
代わりに、自分の内に忘れていた何かを思い出すような色が、その瞳に現れていた。
大きなキッチンのある支部に軒を借りることになった永山隊。
しばしの休息、近江が鷺崎、セルシウス、面々を巻き込んで始めた「三時のおやつ作り」に天野も連れ出される。
渋々参加し腕前の凄絶さを露呈する天野。
「や、ごめん。別になんか悪い意味じゃなくて……なんか、天野でも出来ないことあるんだなって」
「馬鹿にとかしないよ。むしろ愛嬌っていうか安心っていうか……うん、可愛いとこあるって思った」
「できた。はい、熱いから気をつけて食って」
美味い。感想を聞かれてまあおいしいと渋々言うとまた嬉しそうな顔をする。
私が、食べて、美味しいと言ったことを嬉しがるな。変な気になる。
認識を改めさせねばならないので料理の練習するしかない、と考えて気をそらす天野と、仲良くなれて良かったと思う近江。
捕食の関係上、休日には大量の衣服の購入行脚に出る天野。
「恩返しする気があるならちょうどいいわ。季節物買うのに荷物持ちが欲しかったの」
遠慮会釈ゼロで次から次に買っては持たせていく天野。
「これ、似合うんじゃない?」
「……」
いつの間にか把握されていた好みに、「デート」という言葉を妙に意識する天野。
手元には「たまたま行けなくなっちゃったからあげる!」と言われた映画のチケット。
二枚。“行けなくなった”くせにあまりに爽やかな笑顔。
どう考えてもそういう用途に使えと言われている。
だがどうしろと?睨めっこしながら苦い珈琲を啜っていると、準備も出来ない内から一番会いたくない人間がやってくる。
「チケット貰ったんだって?」
手回しの早さに額を押さえて咽せから復帰する天野。
「見たいんだったらあげるわよ。二枚あるって話もどうせ聞いてんでしょ?」
「同じ隊で休みも一緒なんだし、わざわざ別に見に行くこともないじゃん」
「あるわよ!!」
(だが結局一緒にいくことに)なった。
キツい感想vs.鷹揚な感想。いやバーサスという感じでもない。
「天野は辛口だなあ」
「妥当な感想でしょ」
「はは、そうかも。じゃ、次はもうちょっと天野の好みに合いそうな監督の見に行こ」
「はぁっ!?」
なおそれなりに気合い入れた格好でお気に入りのアクセを付けてきたこともバレる。
「ちょくちょく付けてるよな。だから好きなのかなって」
数度目で「話したら気になると言ってたから」とせっちゃんを連れて来た近江に肩すかしを食らった後、それを肩すかしと感じた自分に不機嫌になる。
人を守りたい少年×人を守らなければならないと己に言い聞かせている少女。
かたや力なき者。かたや、あらねばならぬと律する者。
背中を追いかける手はいつしかその肩を掴む掌に変わって。
それぞれの道筋へと揺れながら向かう二つの線の交錯。
冷たく、硬く、堅固な盾と、流れた鮮血で形作られた剣。
黒血の鎧と纏う炎、戦慄するほどの衝撃を幾度も受け止めてなお、些かの揺らぎもないその立ち姿。
或いは畏怖を覚えたとて責めるものもないその背中に、石間誠司が感じたのはある種の美しさだった。
『やはり、生きているようですね。立てますか?』
自然と答え、身を起こしていた。
怖気の震う怪物が相手でも、この人が戦っているのなら自分も戦えると思った。
「俺もやります。出来ることを教えて下さい」
《よし、ならば力を借りよう。私の指示通りに動いてくれ》
入り込んだ非日常。初めての戦いは、仰ぎ見た背の炎の熱量と共に。
精一杯に日々を生きる少女×限られた時の重さに沈黙する少女。
――それは、多分恋だったのだと思う。
運命のように出会った彼女と過ごした、夢のような時間。
天恵のように訪れた、終わりかかった自分に落ちるエンドマークの光景。
「玲子ちゃんになら、私、食べられてもいい」
「イヤだ!そんな終わり方、私は絶対に認めない――!」
始まる覚醒手術と、成功のために必須とされる分身との戦いに、
初めて入椅子は自ら変身することを選ぶ。
「気合い入れてくよ!友達を助けるのも、女子力道の正道だもん!」
選び取った非日常。初めての戦いは、かけがえのないあなたの一歩目を守り抜くために。
『ねえ、知ってる?あの噂』
『聞いた聞いた。学校のサイトリンクから夜の12時に、学生だけ飛べるっていうページの話でしょ』
『こないだいなくなった子、そこ見たせいで家出して何処かに消えちゃったんだって』
『え?誰の話?』
『誰ってあの……あれ?誰の話してたんだっけ?』
『それより、もうすぐ12時だけど……噂が本当か、試してみない?』
『ええー?別にいいけど……ドッキリとかしないでよ?』
『あ、時間』
『押すよ、せーの』
プツッ。
「はいーまたフィッシュ。ほんっと、半端に隠蔽してくれるUGNのお陰で楽に拾えてつまんねーくらいだわ」
任意の走査によってこちらのサーバからダウンロードした電気信号群がトランス状態を招く光の渦となって画面から閃き、少女たちを自ずからほど近い“ゲート”へと引き寄せる。
こちらの別拠点へと転送された彼女らを“彼女”に引き渡せば、“電子制御”に課せられた仕事は完了だ。
機材も住まいも好きなだけカスタムしながら気まぐれに使い潰し放題の生活が、これでまた一ヶ月は保証される。
《ノルマ達成ーッス。さっさと引き取って欲しいんスけど》
口を開いてマイクに喋るのもかったるく、機材操作で生成した音声メールをラボに向け送信。
すぐに返事が返ってくる。
《こんな時間に女の部屋に連絡なんて、もう少しデリカシーを勉強した方がいいんじゃない?》
《好き勝手してる時間帯なの知ってやってるに決まってんでしょーよ。新鮮じゃない方がいいってんなら電子ドラッグ漬けにしてお届けしたっていいッスけど?》
《この間の冗談、まだ根に持ってるの?》
くすくすと笑う声に眉根がへの字に歪む。
《うるっせぇースよ。俺ッチはリズム乱れるの死ぬほど嫌いなんス》
《せっかちね。いいわ、後はこっちで頂いておくから》
プツッ。
疲れた溜息が出る。
音の途切れる瞬間だけが許せるリズムだとつくづく思わされる相手。
こんな嫌な気分になった時は楽しい仕込みをやるに限る。
「今までの網(シカケ)はもう大体面白くなくなっちまったから、新しいの組むッスかねぇ」
テーブル脇の小型冷蔵庫から箱入りのエナジードリンクを取り出して開ける。
喉を通り抜ける甘さとカフェインに脳細胞が活性化し、いつものノリが浸透するように帰ってくる。
「さぁーて、お次は何処の何をおちょくるのがいいッスかね」
指が踊り、脳が走る。
電脳の海に次々と罠を仕掛けていく手捌きは凄まじく、ウィルスの増殖を彷彿とさせる。
それが彼のリズムなのだ。止むことなく響くウーファーと電子の高雑音の乱打。
高速化する感覚の中で、“電子制御”は無邪気で邪悪な笑みを浮かべ、
様々な電子のランドマークに向けて悪戯心溢れるパズルを埋め込んでいった。
「はーやだやだ、、、なあんで俺が!テメエみたいなのを相手にして無駄な時間費やさなきゃなんねえんだよクソが!!!」
盛大な溜息と共に殺到した触腕を切り飛ばした天園が、反吐が出るといった顔で呟いた。
返事はない。代わりに数を倍に増した触腕の先端を増大骨格で強化した二撃目が打ち込まれる。
「そういやテメエ、俺の『とっておき』も多分何人か食ってるよなあ。なんだオイ、今のエフェクトは当てつけか?ざっけんなゴミクズが」
加速させた反射神経と人外の筋力でもって全ての穿撃を回避し、或いは打ち逸らしながら、天園はちっちっちっち、と何度も舌打ちを繰り返し続ける。やがてそれが脈打つ掌の血の爪牙の振動へと引き継がれていく。
次の瞬間、天園の姿がかき消えた。稼働角度を維持するために装甲を纏っていなかった根元部分から纏めて腕が吹き飛び、貌のないvoidの眼前まで肉薄する。
voidに表情の変化はない。感情も恐らく。
故に遅滞なく迎撃の一射が放たれた。胴が虚ろのように開き、黒い光が振りかぶる天園の胴に照準し出力される。
しかしそれさえも天園は獣の如く身を低めて躱し、首を刎ねるべく間髪なしに突き込まれていたvoidの爪と互いを切り裂き合う。
「なるべくなら1ミリも関わりたくもねえがテメエは許しちゃおけねえ。」
ギリギリと互いの肉体に爪を突き立て、再生する肉を引き裂き合いながら、天園が言う。
「テメエはちゃんと喰うときに『考えて』んのか?え?何の為に、何を食って、何を想うか。テメエのそれはポイ捨て以下の行為だ。食事の前にはちゃあんと『いただきます』ぐらい言えよヘドロカスが!!」
天園の腕が一瞬過剰生成された鮮血によって朱に染まり、voidの泥のような漆黒の肉体の四半分を消し飛ばす。
それによりコントロールを失った触腕から逃れると、弾丸のように追随する全ての触腕と乱射される光から、天園は舞うような軽快さで距離を取る。
「あーくっそ次の食事にまで響きそうで嫌だ、、、これだったらまだ渦目とかいう干物かじってた方が何百倍もマシだわ、、、 おいそこのテメエ 居るんだろおいコラ」
すぐさま殺到する触腕を捌き続けながら、天園は何もないはずの民家の屋根上の空間に向かって声を放つ。
「っ!?」
ちゃんと分かっている、ということを伝える代わりに血の滴を四滴、光学迷彩で姿を隠しているUGNのノーマルオーヴァードの周囲を穿ってやる。
「目障りだからこっち手伝うかどっか行くかちゃっちゃとしろ。今はこいつをぶっ殺すのが優先なんだよ俺は。まさかアッチの側じゃねえよなあ? 行くんなら行け。 あ、愛しの近江クンによろしく伝えといて。」
ほら行った、と告げながら重火器の錬成を開始したvoidに再び向き合う天園。
「ラウンド数もカウントも関係ねえ。 テメエの存在が消えるまでのデスマッチだ。」
造血、増血、増結。
極めて不快げに手を打ち鳴らすと、その瞬間、変化が始まる。
世界の全てが加速し、鉛のように重いはずの身体が変化、強化、重量と鋭さを秘めて疾風のごとく軽々しく飛ぶ猟意の塊として咆哮を吹き始める。
「いくら再生力が高かろうと一片一片丁寧に引きちぎってすり潰せば消えるよなあ!?そしたら丁寧にトイレに流してやるから覚悟しろ。肉の一片血の一滴たりとも食わねえし残しちゃおかねえ。」
応じるようにvoidもまた咆えた。全身を錬成した防刃合成金属(アマルガム)で覆い、無限に近しい耐久性を更に引き上げて超重量の銃器を触腕の渦で掲げ上げる。
両者の激突音は遙か遠く、無人に静まった街区の数ブロック向こうまでを震わせた。
「環界(ウムヴェルト)という言葉を知っているかね?」
離陸する最新式ティルトローター機が放つ、大気を震わす爆音の只中で、唐突に狩野が言った。
低く、呟くような一言だったが、それでもはっきりとその声は彼――“マーチャント”峰崎鷹司の耳に届いた。
「いや?悪いがカネに関わらないお勉強には縁がなくてね。アンタお得意の独自の哲学の話かい?」
サングラスにアフロヘアー、こんな場所でも一切周囲を憚ることのない態度/服装――ボタンを開けた派手な柄のワイシャツ、覗くのは何かの鍵に使うらしき素子。
「二〇世紀前半に提出された生物学の概念だ。生物は皆独自の感覚器とその処理系を持ち、種ごとに違った形で世界を捉えている――現象学的に言えば、世界そのものが各個体の存在の在り方によって規定される」
独言するように狩野が答えた。シートに背中を預けた鷹揚な姿勢のまま、始まった、とばかりに首を傾げる峰崎。
「人間の環界は主に言語によって構成され、言語の習得は喪失――原初の母を失った傷への穴埋め行為に起源を持つ。
人間集団は傷を起源として言葉を分かち合う。そして失ったものを取り戻すために欲望を抱き、行動する」
「へぇー、面白いね。じゃあカネってのは、言ってみればその原初のママってやつの象徴なわけかい?」
「お前の主義に則ればそうなるだろう。私の主義に基づけば、それは飢餓感情に収斂される」
ある種の人間――そしてジャームに独特の無感情な瞳で、狩野は峰崎のサングラスの奥の目を見やった。
「アンタがアレに入れ込むのはそれが原因かい」
機体に積まれているモノの怖気が走る脈動をヘラヘラと笑って示しながら、峰崎が言う。
「そうだ。あれは我々一人一人に、本来抱えていた傷が何であったのかを思い起こさせ、極めてシンプルな形でその充足法を各人に与える」
「ほー。てことは、アンタは全土で平和に寝こけてる連中に治療行為を施してやるつもりって訳だ」
「そうとも言える。手を引く気になったかね?」
「まさか。オレの信条は“地獄の沙汰もカネ次第”だ。カネさえ動く世の中なら、地獄になろうが何になろうがこっちはまったく構わんよ」
朗らかに笑う峰崎を見定めるように狩野の目が僅かに細まったが、やがて視線を外すと、眼下に広がる夜の市街を見下ろした。
“大狩り”――オーヴァードたちのみが知ることの出来る、いま人知れず常識の裏側で繰り広げられている激しい戦いの光群を。
「まもなく遍く地上を飢餓の光が覆う。忘れられた痛みは再び人々の胸に戻り、個としての充足を純粋に目指す“世界”が、それぞれの環界に到来する」
瞬き一つせず戦火を見下ろし続けるその瞳には、既に来たるべき地表の光景が見えているかのようだった。
やがて市街の、戦いの灯が遠く消え去り、海へと出るその時まで、狩野はその光たちを見下ろし続けていた。
変身、咆哮。
百の獣の殺到が戦場を覆い尽くし、虚の獣がその中心で顎をもたげる。
他者全てを餌と、猟意の対象と見なすその圧に対し、臨む者の多くが戦慄する。
幾重もの死線をくぐり抜けてきた猛者たちでさえ――通常時のそれよりも遙かに強烈な殺戮の衝動に総毛立つものを覚える。
“刃風”のコードを付与された、「不要なもの」の一切を削ぎ落としたかに見える刃爪の獣――その全力の解放。
全身を覆う断頭刃の全てが血を求めて小さく軋音を上げている。
仮面の奥に隠れた裂けた瞳孔、赤く染まったそれが耐え難い餓えに苛まれて震えている。
その瞳が見つめる先――最早数え上げるのも難しいほどの無数の腕に覆われた異形。
ぴくりとも動かず対峙している。激しい咆哮をも意に介さぬ、介する意もない無音。
唐突にその影がかき消えた。
一切の気配なく、呵責なく、感情なく、接近していた。
そして乱流の如く荒れ狂う圧縮空気を纏った拳を繰り出していた。
余りにも前触れのない初撃――方向性を持たない、或いは全ての方向へと予め向けられていた殺意が、ふと気まぐれにそこで形を成したような。
伸ばされる掌の数と同じだけの、膨大な飢餓と壊意をその身に秘めた、静寂(しじま)の怪物が繰り出す必殺の颶風。
誰も反応することが出来なかった――狙われた当の獣以外は。
鈍(なまくら)の刃がお互いを裂き合うような激しい音が響き渡った。
圧縮空気の螺旋が虚獣の右肩口をミキサーに掛けたように破砕し、白銀の断頭刃が嵐獣の、人間であれば腑(はらわた)に当たる胴の中程を引き裂いていた。
その一瞬の光景を認識できた者はごく僅かだった。風を支配し、統率し、音速を超える速度で展開される二匹の獣(けだもの)の刹那に微かなりとも追随出来た者は。
防御の概念などない。そこには殺意しかない。相手の息の根を止め、肉塊に変えるという、意思ですら思考ですらない、衝動に駆り立てられた歪な狩猟論理だけが駆動している。
その状況を、細片の如く頼りなく霧散した近江有の理性だけが観測していた。
“獣になること”――無音の怪物、嵐の獣に追随し匹敵するために必要と告げられた条件。今こそその真の意味を理解していた。
オーヴァード/ジャームは真っ当の生物ではない。故にバイサズは本当には獣ですらない。獣には生の希求がある。防衛の本能がある。己を継続し命を繋ぐという自然の作り出した絶対の型枠がある。
バイサズにはそれがない――ただ飢餓だけがそこにある。故にそのような存在が己の衝動に深奥まで侵される時、そこには純化された攻撃の理念が顕現する。
嵐の獣――三隅柊吾の身のこなしはまさにその極地だった。それの周囲では全ての事物が対象を効率よく破壊するために稼働する。風を初めとして、筋肉、慣性、反動、衝撃、諸々の物理法則、己の肉体、その損耗、致命傷さえも、全てが殺すべきものを必要十分に殺しきるためだけに理路へと算入され、導出された回答に従う。
全てを削ぎ落とし、虚の真態を露わにした刃の獣――近江有もまた、その論理が横溢する空間に足を踏み入れていた。加速する感覚、過負荷に焼き切れながらその都度再生される神経網、鉛のように重くなっていく身体。それらを燃えるような飢餓感が駆り立て、引きずり、寸暇を惜しむように断撃の無数の連続体へと運動させてゆく。
血が霞の如く飛び、互いの肉片が塵芥のごとく剥離した。打ち合いはやがて匹敵の全速に達し、どちらがどちらの物か判別の出来ない攻戟の連鎖が開始される。そして当事者二人、否、二匹には遅すぎる包囲者たちの即応――“味方”である有を援護するための火線と領域が展開されていく。
「(ああ)」
お互いを殺戮しながら再生する喰らい合いの相克の中で、静かに――閑かに、有の心臓に降り落ちてくるものがあった。
同じ獣(けだもの)と化した存在同士だから分かること。純粋な飢餓の塊同士が衝突するからこそ伝達されるもの。
「(こいつは――)」
相手の本源。餓えの袂。正気と狂気と、恐れと逆上とが隣り合う、“バイサズの生”の境界。
そこに三隅柊吾の根があった。怪物と成り、摩耗し先鋭な殺意と果てていく永い苦悶の道のりの始まりがあった。
あっけなく終わってしまった命。腕/掌――真っ赤な血に染まった。
立ち尽くす少年。未だに何が起きたのか、起こってしまったのか理解できずにいる――或いは理解し、解しすぎてしまったが故にただ見つめることしか出来ずにいる――その時はまだ人間だった三隅の姿。
掌――三隅柊吾を覆うもの。包み、守り、その歩みを形作り、生かし、その全てを以て呪縛しているもの。
理解。その異形。想い――形にすら成れなかった感情が壊れ、砕け、腐敗した精神に纏わり付いたもの。
理解。その無数。一つ一つ違う意味を為すもの――思考、認識、拒絶、苦悶、模索、挫折、循環、行き詰まり、横溢、転覆、崩壊、循環、壊乱、混乱、自壊、循環、自壊、自壊、自壊、循環、始まる腐敗、進む腐敗、忘却された腐敗、乖離し燦爛し失われていく思い出、その掻き集め、必死のリピート、リピート、リピート、それでもなお形をなくしていくもの、思い出せなくなっていくもの、狂乱、暴走、一向に止まない腐敗、散逸、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、絶叫、――そして、無音。
――腕を切り落とす。
意識が認識するより早く、論理は答えを弾き出し、その実現に全ての心血を投入していた。 ――これから腕を奪う。全ての腕を奪う。
それがこの狩猟の正解。この獲物を望む肉塊に変え、餓えを、渇きを癒す糧に墜とすために為すべき行動。
相手も気付いたようだった。微かな動きの乱れ――今や砂粒ほども残っているか危うい精神の動揺。
その隙一つを腕一つの断切に換えた。こちらを砕き殺すことでそれを止めようとする腕をも絶った。
頭蓋を粉砕してくる一撃の代わりに断撃。輪郭を削り取る乱打の代わりに斬撃。千切れ飛ぶ腕がなせぬ剪断の代わりに蹴り――用意されていた火線の中に放り込み何本もの腕を血飛沫と肉片と骨片に換える。
変換。変換。変換。変換。幾度も、何度でも――再生の度に溢れ落ちていく大切なものを前にして、明らかに精彩を欠いていくその身体を/腕を切り落とす。
血が燃え、肉が燃え、命が燃えて、その刹那を生み出し続ける。匹敵はいつしか蹂躙へと変わり、剥がれ飛ぶ腕が描く放物線は目も当てられないほどに全方位へと朱の弧を引き続ける。
『Arrrrrrrgraaaaaaaaaaaaa!!!!!』
いつしか咆哮していた。喉とも言えぬ歪な声帯から、希薄化した精神がそれでも耐えきれず上げる悲鳴が喉から絞り出されていた。
肉体はそれさえも力へと換え、殺戮を続ける。とっくの昔に死に等しい苦痛を受け、今もなお何一つ変わらない痛みに悶え続けている人間だったものを、殺し続けている。
三隅の動きは最早止まっていた。崩落する思い出を/記憶を/大切だった繋がりを/やり取りを/三隅柊吾という一人のひとを形成してくれた、思い出せすらしない分からないものを掬い上げる再生(行為)に必死になっていた。
最早誰も攻撃していなかった。高速の対峙はとうに終わりを告げていた。雌雄が決したことを誰もが察し、そして手立てもなく、ただ一匹の獣(けだもの)がもう一匹の獣(けだもの)を殺し尽くすのを見つめていた。
その最も近い場所に、近江有の精神がいた。見下ろしているのは幾重もの鮮血に塗れ、掌の残骸の海に無音の絶叫を――身じろぎ一つせず天を仰ぎ、発している、人間の形へと戻った三隅柊吾だった。
自分の足が、その胸を踏みしめている。心臓の鼓動を感じている。
白熱を感じた。何もかもをなくして、それでもなくしたことを受け入れられないまま、ここまで拍動してきたその命の、その総身の、儚い脈動、その成果。暴嵐に等しい殺戮を無数に無窮に布いてきた、むなしく激しい圧倒的な力の、最後に残った一欠片。掌一つ分の煮え立つような熱量。
――空っぽだ。
心(けもの)が呟いた。夢中になって遊び、摩耗させ尽くし、その挙げ句にそれがいかに矮小で繊細で稚拙な代物だったかを理解し、投げ捨てようかというような。
「(違う)」
そう言い返したかった。だが一声を発していたのは他ならぬ自分自身だった。
――虚(うつろ)だ。ここには、何もない。
「(違う)」
自分のことだった。全て分かっていた。この理解は真実だと。そして絶好の口実だと。
刃の足に力が籠もる。三隅の破れた喉から溢れる空気のひゅうと鳴る音が漏れる。
――俺と同じ虚(うつろ)だ。これは、壊したって何の差し支えもありはしないものだ。
「(違う)」
それでも言い募った。己自身に向けて必死に叫び返した。
「(これは違う、このひとは――このいつか人だったものは――それでも確かに、今も、『人だったもの』なんだ)」
その事に意味があると伝えたかった。それはそれだけでも代えがたい価値なのだと信じたかった。
だって、それは、
「(これだって、俺なんだ。俺はまだ、生きていたいんだ)」
心臓の鼓動がそう告げていた。それは再生を開始しようとしていた。
既に変身がほどけても、全力が失われ僅かなものと損ない果てようとも、それでも立ち上がろうとしていた。
まだその瞳に、見えないまま視えているもの――あの日の幻像。その向こう側。永遠に失われた思い出への遡及。それを求める飢えの故に。
――そうだな。
ついに訪れようとするその瞬間への喜悦を隠しきれなくなりながら、獣の近江有は応じ、口にした。
その思考の帰結を。
――だから、殺してやらないとな。
ぐしゃり、と踏み抜く音と感覚が他人のもののように感じられた。その遠さに目眩がした。獣(自分)が、自分を、こんなにも最低の納得に導いてしまったことに。
「……」
かふ、と微かに息を漏らして、三隅柊吾の命は終わった。血の通っていた肉体は五つに裂かれた心臓から全身へと結晶化していき、やがて血溜まりと全ての残骸が干上がった海のような煌めく血漿/結晶の群れへと変じた。
変身が解けていく。最早その形である必要がなくなったから。理性が戻ってくる。最早それを脇に退けておく必要がなくなったから。
そして込み上げてくるもの――全力でその力を行使した代償。おののくほどの食欲。
遺体の上に突っ伏して吐いた。自分の汚い胃液で聖なる遺体へと還った男を穢した。
最悪の感情と最低の欲望の只中で、近江有は声すら出す権利も持てず泣いた。
某月某日、燦々、快晴。
東京近郊L市某所、UGN支部三階、トレーニングルーム。
開放された天窓から陽光が降り注ぎ、グレートーンの床にはっきりとした陰影を刻む朝。
部屋の片隅、ウェイトリフティング用の器材が並ぶ一角に、ギシギシと長椅子を軋ませながらベンチプレスに励む男の姿があった。
「八五二、八五三、八五四、八五五……」
バーベルの上下に合わせ、変形する鍛え上げられた胸筋と上腕二頭筋、六つに割れた――しかし上二つと比べると若干遜色のある微妙な筋量の腹筋。汗に濡れたタンクトップのトレーニングウェア姿で、一回、また一回と、百キロを超える重量のウェイトを持ち上げる。
運動には明らかに邪魔であろうに、何故か装備されたままのサングラス。右手首に光る、時計ともアクセサリーとも付かない奇妙な金属製のバンドと、脇の小テーブルに置かれたピンバッジ。いずれも今のお子様方の基準からすれば「ダサい」と切って捨てられそうな、往年の戦隊アニメを彷彿とさせるシンプルな三色カラーの意匠。
「八六三、八六四、八六五、八六六……」
上下動のたびに一つずつ積み上がっていくその数字の大きさと合わせ、総じて異様な雰囲気を醸し出している。異様……異様、と言えば異様。滑稽、と言えばまあそうでもある。少なくとも、圧倒的にユニークで存在感に溢れるアトモスフィア。
正義マン、別名(本名ともいう)只野正義。正義の味方を自称する男がそこにいた。輝く己の筋肉、正義を支障なく執行するための基礎となる資源を増大させるべく、勉励していた。
「八八八、八八九、八九〇!八九一……」
積み上げる数字は正しさの証。筋肉……そして正義は己を裏切らない。そのことを今日も今日とて全身で体感しながら、只野はトレーニングを続けていた。
正義……一般的な語彙に言い換えるとこの場合、エフェクト。使用を繰り返すほどに強度は高まり、肉体に馴染み、より容易に法則をねじ曲げるようになっていく異形の力。怪力を誇るキュマイラシンドロームの持ち主ほどではないが、身体改造に特化したソラリスエフェクトを持つ只野が肉体を酷使することによって、少しずつ……キマってくるのだ。両の掌、腕筋で支えている視覚化された重圧。それを押し上げ、また受け止め、再び押し上げ直すための特別な力が。全身に。
「おお、いい!来ている、来ているぞ!この身を正義へと駆り立てる熱い力が!!八九二ィ!!」
《beeeep》
順調に脳髄にも浸透しつつあった狂騒成分、高揚に水を差すように、サイレンに似た短い警告音が響き渡った。
「ぬ」
発生源は右手首。正義の意匠輝く赤・白・銀のデバイスから、続けて二度、同様の音声が発される。
続いて、一昔前の機械案内のような棒読み口調の女性の声。
《侵食値が平常規定値限界に到達(リーチ)しました。言い換えると正義執行要待機ラインに到達しました。今すぐトレーニングを終了して下さい》
「むう、あと少しでいい区切りだというのに……」
《貴方の珍妙奇天烈(極めてユニーク)な語彙に合わせてお伝えしたというのに主旨が伝わりませんでしたか?要約しますと、今すぐエフェクトガンギマリ状態から回復しこちらの世界に戻って来て下さい、ミスター脳筋(ジャスティス)》
「何となくだが、今仲間(オーナー)である私に何か失礼なことを言わなかったか?ジャスティスセイバー2」
《ベルツーです。saverⅡ、後ろを略してベルツー。かわいくないのでその呼称はおやめ下さいと七九回これまでに申し上げておりますが、ミスタースカポンタン(ジャスティス)》
「やっぱり何か正義的ではない含意を込めてはいないか、ジャスティスセイバー2?」
渋々といった様子でダンベルを降ろし、全身から放出される薬物含みの汗を拭く只野。
《私を優先して拭いて下さい。貴方がお持ちのそれとは別の新品のタオルでお願いします。私は精密機器ですので》
「我が侭だなジャスティスセイバー2。しかし他ならぬキミの頼みだ、その通りにしてやるとしよう」
《ベルツーです》
変わらない平坦なトーンで事細かに注文を付けるデバイスを拭う只野。そうしている内に汗も引き、危険な成分を伴っていた蒸気も収まっていく。
《規定値以下への侵食値減少を確認。今日も朝から面倒至極(ハードワーク)です》
「うむ、そうだな。まだまだやれるところだったと思うが、まあ一日の初めのウォームアップとはしてはこんなところか」
どことなくずれた会話につっこむものもなく身繕いをする。見る者とてないが、馴染んで久しい光景だった。
デバイス――只野によって“ジャスティスセイバー2”と名付けられた、高性能AIを搭載した専用侵食・行動管制用機器。UGNの技術と資金を惜しみなく投入したそれが只野の身に装着されてから、既に一月ほどが立つ。
“α事件”とまとめられた騒乱の終結からしばらく。多くの被害を出しながらも得られた知見が反映された、バイサズオーヴァードの潜在侵食値に対応した最新の制御装置だった。人格、と言っても差し支えないほどの柔軟性を見せる学習性の音声式インターフェースに、バイサズ抑制剤の投与による緊急時の強制沈静機能も備える代物。暴走が危惧されるバイサズオーヴァードに試験的に配付されているそれを、只野は第一陣として身につけている。
「やはりデザインは正義的なものがいい!」
只野独特のセンスを妙に気に入った開発班が完全再現(悪ノリ)したそれは、『正義超人ジャスティスマン』の相棒役を務めるメカキャラクター、「ジャスティスセイバー」の外見を完全に反映した代物として出来上がった。
「実に正義!」
《正義の意味を学習しました。つまるところ“最低”と解すればよろしいのですね》
「うん?“最高”の間違いだぞジャスティスセイバーよ」
《私の学習機能は正常です。せめて最悪(ジャスティス)からもう一歩だけでもどうにかなりたいので、後ろに2を付けて頂けないでしょうか》
「ふむ!その一歩を踏み出そうとする姿勢は非常にいい!私もジャスティスマンを越える正義にならねばならぬ立場、キミの意は汲ませてもらうとしよう。キミの名はジャスティスセイバー2!ジャスティスセイバー2だ!」
《略してベルツーということでお願い致します。恥ずかしいので》
「正義を名乗るのに恥ずかしいということはないぞ!キミには学習が必要なようだな」
《私も同じ感想です。どうやら厳しい職場環境になりそうですので》
「その通りだ!それではこれからよろしく頼むぞ、ジャスティスセイバー2よ!」
《ベルツーです》
以上のやり取りを経て始まった共同生活は、今のところ順調に推移していた。複数回に及ぶ最終警告と強制沈静剤の投与を“問題”と数えないのであれば、だが。
少なくともそれで順調(良い)、と見なしている一人が彼だった。
『おはよう。……どうやら今日も今のところ、仲良くやれているみたいだね』
着信を知らせる振動の後、ベルツーから柔らかな調子の男の声が発される。
永山栄――UGNバイサズ対策専門部隊第一班隊長、その人工声帯が奏でる、僅かに歪んだテナーハスキー。
「おはよう永山氏!今日も良い天気だな!」
液晶に表示されたその名を確認しながら、キレの良さを自称する笑顔で応答する只野。
《私の回転周波数(テンション)は最低(ジャスティス)ですが》
「ジャスティスセイバー2もこの通りだ!今のところ、全くもって満帆(ジャスティス)だな」
《最悪(ジャスティス)です、リーダー》
穏やかな苦笑の気配。抗議するような短音のビープが三度/只野は欠けるところのない笑顔を煌めかせたまま。
『差し支えがないようで何よりだ。ベルツー、彼の体調は問題ないかい?』
《常時同期しているデータの通り、至って正常です。私は完璧ですので》
「正義にふさわしい健康体だ!」
『そうか。それなら、君の時間を分けて欲しい。ブリーフィングが必要な事態が起きた』
「久々だな。悪の気配か?」
《出勤(ジャスティス)ということですね》
『そうと決まった訳じゃない。ただ、調査しなければならない懸念事だと上層部が認めたんだ』
サングラスの下で只野が眉根を上げる。煮え切らない言い方――些事は正義に不要と切り捨てる彼とても気付く、歯切れの悪い言葉選び。
『今はトレーニングルームだね?三〇分後の集合でいいかい?』
「五分でも十分だ」
『着替えは済ませてきてくれ。今日は天野くんにも招集をかけてる』
《了解しました。マスターには徹底的なシャワーの後、制汗スプレーを三重にかけた上で司令室に向かわせます》
『程々にしておいてくれ。早く集まれるなら、それに越したことはないからね』
「了解!」
そのままの格好で駆け出そうとする只野の右手首ですぐさまビープ音が鳴る。
互いに厄介なものに接するといった口調で応酬する一人と一機を余所に、雲一つなかったはずの空には、いつの間にか僅かな陰りが見え始めていた。
「ああ、待ってくれよ。別に君たちに何かするために出てきた訳じゃないんだ」
微笑む少年が至って穏やかな調子で言った。
「久々に会うね、石間くん。元気そうで何よりだ。君のようなひとが未だに生き残れていることが、僕としては非常に痛ましく、悲しく、そして嬉しい」
包囲に対し、展開されたワーディング――真綿のように柔らかく、それでいて絞首縄のように余地のない無色透明の完全防壁。
全員がゆっくりと引き金から指を離した。この領域の内側でそれに向かって発砲した所で、結果は目に見えている。全ての存在がその事実を自覚させられていた。
「……では、何のために姿を現したか訊かせてもらおうか」
氷室が口火を切る。凍てついた声音――警戒、促す言葉の裏で危機に対処する策を講じる。
「やれやれ、ちょっと顔を出さないでいる内にこの歓迎か」
苦笑するネビュラ――その表情さえも精緻な彫像のように完璧で、硝子のように透き通り、肌は白く、美しい。
「ゼノス――あの子狐くんに何か吹き込まれたかな。まあいい、それでも今回は構わないんだ」
そう言うと再び石間と、背後に立つ氷室に視線を向け、ネビュラは言った。
「君たちのところでも観測したんだろう?例の怪物を倒すための唯一の方法。それを教えてあげるよ」