SS - 殺意2

16. 三隅の前日譚

夢を見ている。何度覚めても終わることのない、悪い夢を。

あらゆる感覚が遠い。水底を漂うような、五感の隔絶。
現実味のないモノクロのフィルムのような夢遊の中、暗く昏く儚く口を開ける虚ろへと手を伸ばす。何度も、何度も。
やっと届いた微かな痛みをかき集めて、かき集めて───そこが限りなく死に近い生の淵であることを認識して、それでようやく、自分がまだ生きていたことを思い出すのだ。

今日も。


「───」

瞼が降りる。また上がる。
一瞬だけ遮られた視界が再び開ける。
膝を崩して座り込む自分、その虚ろな双眸が捉える薄暗い室内の光景。それが唐突に信号として入力されたのを、青年はただ静かに認識した。
同時に知覚する饐えた臭い。うち撒かれた精液と吐瀉物と───硝煙と血の臭い。
窓のない部屋。見るともなく見つめる先、僅かに届く光に浮き上がる床は斑に染まり、見覚えのない男の残骸が点々と転がっていた。
感覚の鈍った指先が腕を摩る。
縦横に走る無数の傷跡、未だ血の滲む注射跡のおうとつ、指にかかるそれらの感触。呼吸の度に乾いていく喉。内股を濡らす冷たいもの。いのちの気配のない部屋。
肩を抱く。

(───さむい)

床を濡らす汚泥が体を汚すのを気に留める様子もなく、青年はその痩身を横たえた。
伸ばした手に触れたものを、引き寄せて側頭に宛てがう。冷えきった黒い金属の塊。そこかしこに転がるいのち「だったもの」を沈黙するばかりの肉塊に変えたはずの、その熱は今や名残すら見せない。
緊張も興奮も何の感慨もその瞳に浮かべないまま、ただ。
引金を引く。

───がちん。

空の弾倉に撃鉄が落ちる。
青年は表情を変えぬまま、その銃を放り出した。
仰向けに転がり、薄闇に霞む天井を見上げる。何とも知れないもので濡れた髪が、頬に張り付くのを払いもせずに。

夢を見ている。何度覚めても終わることのない───終わらせることすらできない、悪い夢を。
自分の在る意味をただ一つ、遺された願いに、呪いに縛られたままの寄る辺のない命。ただ自分の生を確かめるためだけに、己と他人の命とを生死の境で競わせている。
いずれ手招く九泉の腕(かいな)が、この手を引いてくれることを願いながら。


17. トロンちゃん×オトネちゃん

「……やっと尻尾、出した」

「アンタっスか~。ここ最近俺ッチの邪魔してくれてたのは。
どんな陰キャかと思ったら、とんだメスガキじゃないっスか~。正義の味方気取りっスかァ?似合ってないッスよ~。……大人しくおウチでネンネしてろ」

「こっちの台詞。───"XXXXXX"」

「…………へえ。
路線変更っス。……ギッタギタにして次の餌にしてやる」

「それも、こっちの台詞。……来い」


18. 永友

「永山さん」

見かけた後ろ姿を呼び止めた。

「……少し、お時間頂けませんか」


声を掛けたものの、いざ向かい合って席に着くと、言うべき言葉がするすると頭から逃げていってしまった。
何か話さなければと思えば思うほど、何を言ったらいいのか、思考が空転してまとまらないまま、気付けば膝の上で握りしめた拳ばかりが意識に残る。

『……君は』

切り出したのは永山だった。
沈黙に耐えかねたからか、時間を惜しんでか、あるいは別の理由からか、友氏には分からなかった。

『後悔しているかい?』

何を、とは言われなかった。
それでも、何を問われているのかは分かった。

「……僕は」

俯いたまま、口を開いた。
思っていたよりも淡々とした───平坦な声が出たことに、自分でも驚いた。

「……後悔なんか、しちゃいけないんだと思っていました。彼女がそう望んだんだから、それを悔やむのは彼女の気持ちを踏みにじることだと」

───でも。

「それでも、」

本当にそれで良かったのか、未だに分からずにいる。

『……そうか』
「……永山さんは、後悔してるんですか」

しばしの沈黙。

『…………してる』

呟くような───掻き消えてしまいそうな音だった。

『……してる。すごく』

機械の声帯が紡ぐ音。聞いてそれと分かる、人工の掠れ声。
そこにはそれでも、どうしようもないくらいに生身の、一人の人間が抱える感情が滲んでいた。

『でもね。だから───そう思うから、僕はここにいるんだと思う。ここの人達は少なからず、似た傷を抱えているから───
そういう人たちが、ひととしての枠《じぶん》を忘れずにいられるように見守ることで、僕も人《じぶん》らしくあれるんだと、そう思うよ』

久方ぶりに上げた視線の先。
永山はつらいものを見つめ続けて擦り切れてしまったような、くたびれた気配を纏って───それでも微かに、大切な何かをその腕に抱くように、笑っていた。

『少し、ずるい言い方になってしまったかな』
「……いえ」

シャツの下、体温の移った小さな環が、何かを訴えるように重みを増した気がした。

「……僕でも」

生きろと言った。彼女が、そして彼らが。
自らを糧としてこの先を生きろと。
それだけの価値があるのかも分からない未来を歩むことを、彼らが願うなら、それを拒まなかったのなら、そうしなければならない。
例え自分自身の生に、その意味を見出せないとしても。

「僕でも、力になれるでしょうか」

自分だけの生を全う出来ないのであれば、せめて誰かの為に。
誰かの力に。支えに。彼らが全てを賭して生かした命で。

『……ありがとう』

醜いエゴだと思った。きっとこの人には、それが分かっているだろうとも。
永山はそれ以上、何も言わなかった。友氏も無言のまま、ただ頭を下げた。


「……すみませんでした。お忙しいのに……」
『いや、それがねえ。そうでもないんだよ、実のところ』
「え」

意外な返答に、思わず気の抜けた声が漏れた。
常に人手の足りていない組織、その中でも殊更希少な人員の集まりをまとめ上げ、管理職でありながら戦闘の前線指揮まで一手に担っているのが永山だ。任務を片付けた後はたいてい、上層部への報告であったり現場の始末の手配であったり、そういったことに追われている。
こと今回の件については、規模からしても受けた被害からしても───何より未だ後を引く事の顛末からしても、ここからが本番とばかり慌ただしくしているに違いないと、そう思っていたのだが。

『まとめないといけない書類は、全部須磨さんに取られてしまったから』

───永山サンは毎回毎回何でもかんでも自分だけでやろうとしすぎなんですう。言っときますけど報告書やら何やら、そんなの傍から俯瞰で見てたあたしのほうがよっぽど客観的に書けますからね。あ、あと清掃チームには声掛けておきましたし総務さん達にも隠蔽《カバー》お願いしてあるんで。その辺はコッチに任せて隊のみんなのフォローとかそーゆーのお願いしまっす。

『……って言われてしまったら、何も言い返せなくてねえ……』
「はあ……」

あまりにも容易に想像がついて、これまた気の抜けた相槌しか出てこない。
イリーガル同士、顔を合わせる機会はそう多くはない。が、通信機器越しでも実際に会ってみても、調子がさして変わらないのは周知の事実だ。“カノープス“───空を往く巨大船、その中にあって一際眩く輝く導きの星の名を戴くひと。
らしいな、と思った。

『そういう訳で、上への報告までは日があるし、ちょうど時間を持て余してたんだ』

気恥しげに笑う。あの時───あの男にまつわる禍根、傷跡、それらを明かした日の痛々しさは、そこにはなかった。

『話せてよかった』
「そ……う、ですか」

それじゃ、と僅かに尾を引く煙《インク》の残り香を置いて去る永山の背を、友氏は静かに見送った。
あの日失ったもの───一度は失ったと思っていたもの。
もう一度、手を伸ばせるだろうか。
首から下がる枷を、命脈を、そっと握った。その重みが頼もしいと、その時初めて思った。


19. 志三

「やあ颶風の。お疲れさん」

至って軽い調子の挨拶に、血塗れの男は足を止めて顔を顰めた。それを認めて、白衣の女が愉快そうに目を細める。
無表情なようでいて、この男の反応は案外分かりやすい。例えば男が舌打ちをして踵を返すのも、

「面貸しな。傷を診てあげよう」

その言葉に再度、大きく舌打ちをして足を止めるのも、女には容易に予測できた事だ。女が笑みを深くする。

「おいで」

かつ、と高いヒールが床を叩く。男は何も言わない。ただ黙って、悠然と歩く女の後を追った。


「そこ座って。何か飲む?」
「いらねえよ」

即答。女はからからと笑った。

「つれないねえ、まあいいや。脱いで」

言いながら、デスク脇のコーヒーメーカーからマグカップへ一杯。
射殺さんばかりの視線もどこ吹く風といった様子でコーヒーを啜る女を前に、男は苛立ちを隠しもしない乱雑さで赤黒く染まったTシャツを脱ぎ落とした。ついでに肌に残った血を拭う。露わになった裸の上半身に、女は軽く片眉を持ち上げた。

「何、また痩せたんじゃないの。 ご無沙汰? 」
「傷見るんじゃなかったのか」

視線すら合わせず、男が言う。あからさまに不快げな、唸るような声音。女は鼻歌でも歌いたいような気分で男の体を検分する。
衣服は酷い有様だが、青白い肌に傷は殆ど無い。所々に走る裂傷も薄く、既に消えかけていた。それなりの規模の戦闘ではあったが、所詮有象無象を蹴散らすだけの示威行為、この男にしてみれば寝起きの運動にすらならなかっただろう。
顎を掬い上げて、薄い唇を親指でこじ開ける。慎ましく揃った歯列を辿って、次は人差し指と中指を舌根へ。戦慄くように呼吸が乱れたのは想定の範囲内だ。体温にも脈拍にも、気に留めるほどの変化はない。
震える粘膜の上を滑らせるように指を引き抜くと、男の肩が大袈裟なほどに跳ねた。濡れた指先を白衣の裾で拭う。

「分かっちゃいたけどほぼ返り血か。こりゃ包帯もいらなそうだね」
「……用がそれだけなら、」
「まさか」

女が鮮やかに笑って、傍らのワゴンから注射器を取り上げた。

「腕、出して」


20. 石三

夕暮れの校舎で「彼」と話していた。
誰もいない教室。微かに響くグラウンドの喧騒。朱い日差しに照らされて長く伸びる影。
彼は笑っていた。何よりも明るく眩しい笑顔。いつだって、鏡のように凪いだ心を揺らすのはこれだけだった。

「───」

机をひとつ挟んで向かい合う距離。
届かないはずはないのに、どうしてだか何を言っているのかは聞こえなかった。
シャーペンの芯が折れる音だけが鮮明に響く。声も出せない俺を気にかける様子もなく、彼は一方的に話し続ける。認識できないまま流れていく言葉。声。その温度。
胸の奥がざわついて息が詰まった。まるで彼には俺が見えていないようで。ここにいると思っていた彼が、手の届かないスクリーンの向こうにいるようで。

───当然だ。彼はもうこの世にいない。

これは夢だ。何度も何度も汲み上げ続けた彼との記憶を継ぎ接ぎにしたもの。繰り返す過去の幻影───彼の声だけが抜け落ちた。

「───」

聞いてはいけないと思った。俺には届かないその声を、言葉をこれ以上追ってはいけないと。
警鐘のような耳鳴りが頭の中で反響する。ぼんやりと霞んでいく彼の顔の中、唇が俺の名前を形作るのだけが妙に鮮明に映った。
目を見開く。

「───三隅!」

赤黒い景色が巻き戻されるように歪んで、意識が急激に浮上した。
急に吸い込んだ空気が喉につかえて咳き込んだ。背中を擦る温かいもの。
目に映ったのは夕陽に沈む教室でも虚(うろ)のように曖昧な彼の顔でもなかった。淡いブルーのシーツと、それを縋るように握りしめる生白い指。
体を起こすことも整わない呼吸を取り繕うこともできないまま視線だけを向けた先、半ば覆い被さるようにしてこちらを見下ろしているのは、生活を共にするようになってしばし経つこの部屋の主の少年だった。

「なんか、すげー魘されてたぞ。顔青いし……いや顔色悪いのはいつもの事だけど。何つーか……」

気遣わしげな声音に、ああ、夢の中で聞こえたのもこの声だったと思う。
泡沫のように浮かんだ記憶の中の彼の姿に彼のものとは全く違う声が重なる。輪郭が泡立って、溶けて、崩れて、気付いた時にはそれは目の前の少年の形をしていた。

───内蔵を絞りあげられるような吐き気に目眩がした。
血の気が引く。思わず口元を押さえた指先は氷のように冷えきっていた。


21. JP0104_A_A0268事件報告書

1.発生年月日
20XX年 7月 28日

2.発生時刻
18時17分頃(JST)

3.発生場所
国立U大学附属病院(東京都D区)

4.概要
Az型変異体による無差別大量殺傷事件

5.詳細状況
現場では複数回の爆発を観測。
最初の爆発は18時25分頃、第4入院棟の1階内部で発生。この際に被害を受けた階の監視カメラが損傷したため、実際に記録された映像情報は無し。添付資料「JP0104_A_A0268映像資料」は検証チームが遺留品から読み取ったものである。
その後18時27分、18時31分、18時33分に続けて1階で大規模な爆発が発生し、第4入院棟が倒壊。18時49分、第1研究棟の一部を破壊する爆発が発生したのを最後に事態は収束。
爆薬類の使用形跡、出火の痕跡なし。《ディメンジョンゲート》の発現形跡あり。
現場から採取した体液の解析結果から、加害個体がAz型変異体であると判明。
一部の遺体に欠損部位あり。捕食されたものとみられる。

更新 20XX年 8月 2日 以下
発見した全ての遺体の身元照合を完了。
行方不明とされていた第4入院棟0104号室の入院患者を加害個体と断定、手配。詳細は添付資料「JP0104_A_A0268加害個体情報記録書」を参照。
更新 20XX年 8月 2日 以上

6.被害
死者・行方不明者 162人(内訳:第4入院棟入院患者98人、医師9人、看護師26人、研究員12人、一般職員4人、見舞客13人)
負傷者 47人(内訳:医師6人、看護師11人、研究員19人、一般職員2人、見舞客9人)
施設内建物等 全壊1棟、一部損壊1棟
近隣建物等 一部損壊 3棟
被害額 21億2800万円(推定)

更新 20XX年 8月 2日 以下
死者161人
行方不明者1人
更新 20XX年 8月 2日 以上

7.対応処置
生存者および目撃者、近隣住民の記憶改変処理。
倒壊した建造物の修復及び清掃。
処理対象者、修復建造物の詳細および具体的な処置内容については添付資料「JP0104_A_A0268情報処理記録書」「JP0104_A_A0268建造物修復記録書」を参照。

8.その他
添付資料は下記の通り。
JP0104_A_A0268情報処理記録書
JP0104_A_A0268建造物修復記録書
JP0104_A_A0268被害分布図
JP0104_A_A0268映像資料

更新 20XX年 8月 2日 以下
JP0104_A_A0268加害個体情報記録書
更新 20XX年 8月 2日 以上


22. JP0113_B_A0243事件報告書

1.発生年月日
20XX年 8月 31日

2.発生時刻
16時52分頃(JST)

3.発生場所
XXXX株式会社 湾岸倉庫(東京都K区)

4.概要
ファルスハーツセル内部抗争

5.詳細状況
20XX年9月2日午後12時7分、同地区に勤務する男性より「向かいの倉庫から異臭がする」との通報あり。
倉庫内部を確認したところ、複数人のものと思われる肉片を発見。一部は一度捕食されたのちに吐き戻されていた。損傷が激しいため人数の特定を断念。
エフェクトによる空間操作の痕跡あり。調査の結果、倉庫床下部分に何らかの薬物製造の形跡あり。生成品は見つからず。対象セルの資金源とみられる。流通経路の追跡が必要。

更新 20XX年 9月 4日 以下
採取した血液及び肉片の鑑定結果より、被害人数を推定。全員がオーヴァードであることを確認。
Az型変異体の陽性反応を1体分検出。採取量は極端に少なく、生存、逃亡したものと見られる。
詳細は添付資料「JP0113_B_A0243鑑定結果報告書」を参照。
更新 20XX年 9月 4日 以上

更新 20XX年 9月 15日 以下
対象セルによる違法薬物流通関連調査についてはJP0113_D_A0348を参照。
更新 20XX年 9月 15日 以上

6.被害
更新 20XX年 9月 4日 以下
死者 構成員とみられるオーヴァード10人(推定)
更新 20XX年 9月 4日 以上

7.対応処置
目撃者の記憶改変処理及び付近監視カメラの映像差し替え。
倒壊した建造物の修復及び清掃。
処理対象者、処理範囲、修復建造物の詳細および具体的な処置内容については添付資料「JP0113_B_A0243情報処理記録書」「JP0113_B_A0243建造物修復記録書」を参照。
薬剤の製造に使用されたとみられる機材一式を回収。
押収品については添付資料「JP0113_B_A0243押収品一覧」を参照。

8.その他
添付資料は下記の通り。
JP0113_B_A0243鑑定結果報告書
JP0113_B_A0243情報処理記録書
JP0113_B_A0243建造物修復記録書
JP0113_B_A0243押収品一覧
JP0113_B_A0243現場見取図


23. 薄氷、それでも

イリーガルの身となって、しばらくが過ぎた。
己が身に宿る異常、超常、それらと向き合うことを日常と認める非日常に、近江は少しだけ、慣れ始めていた。
近江の生きる”非日常”の一環。元クラスメイト、現先輩の少女───天野との戦闘訓練、その小休止。
よく磨かれた板張りの床の上、もうもうと湯気の立ちのぼる保温ポットを手に、あからさまに距離を置いて座る天野(とそれに寄り添うファーレンハイト)を横目で気にしつつ、近江もペットボトルのミネラルウォーターを飲み干した。

(嫌われてる……のかなあ、やっぱり……)

無理を言って付き合わせている自覚はあるが、こうも渋々といった様を見せつけられてはさすがにへこむ。それも訓練では伸されるばかりとあっては、滅入る一方だ。
ため息をひとつ。軽く首を振り、体を伸ばす。ようやく汗も引いてきた───と思った矢先。

「やあやあやあ青少年、励んでるねえ!」
「ぅうわあああああっ!?」

すぱんと小気味良く引き戸の開く音と共に背後から飛び込んできた、明朗快活なハイトーンに近江は思わず絶叫した。

「おっ、頂きましたナイスリアクション。特訓も一段落したとこかな?したとこだね?うんうん、いっぱい動いてお腹空いたんじゃない?おやつの時間だしちょーっとお姉さんといいとこ行きましょうか!」

取り落としたペットボトルの蓋がファーレンハイトの足元に転がった。ファーレンハイトは相変わらず、人形めいた無表情を張り付けたまま、拾った蓋を見事なコントロールで近江の額に投げ返した。

「ぅあっ」
「あのね……葵さん」

再び転がった蓋をわたわたと追いかける近江を丸切り無視して、天野はげんなりといった様子で口を開いた。

「今、一応訓練中なんだけど。エフェクト使ってないって言ったって、急に入って来て誰か怪我でもしたらどうするのよ」
「やだなあちゃんと見てましたよ、天野先輩の指導風景。ほい差し入れ」

むに、とオレンジキャップのペットボトルでむくれた頬を押し返す。

「茶化さないでよ、もう……途中で入って来られると気が散るんだけど」
「いーじゃない。ここの使用許諾、このコマまででしょ」
「なんで知ってるのよ……」
「チームのみんなのスケジュールくらいお見通しよん」

ばちんとウインクをひとつ。

「で、おやつ何にする?あんみつ?たい焼き?芋ようかんなんかもいいよねー」
「勝手に行ってくればいいでしょ」

興味ない、と言わんばかりの天野の様子に気を悪くするでもなく、葵はあっけらかんと言い放った。

「えー。いいのかなあ、あたしと近江くんが二人っきりでお出かけしちゃって。怖いのがいない間に、美津のあーんなこととかこーんなこととか勝手に喋っちゃうかも知んないぞう」
「えっ」
「は……」

急に名前を出されて、近江は間抜けな声を漏らした。
いつぞやも見たにやにや笑いの葵、反して絶句の天野は次第に目を見開き、

「……ちょっと葵!!そいつに何吹き込む気なのよ!!」
「さあさあ、なーんでしょうねっと。にっしっし」

転がった蓋を拾いかけて屈んだまま、微妙な中腰姿勢で呆けていた近江を軽々さらって踵を返した葵に食ってかかった。

「じゃー行きましょうかね近江くん!先輩はつれないしランデヴーと洒落こみますか!」
「ええ!?」

特別体格がいいわけではないが、そこまで痩せているわけでもない───と思っていたのだが。
小脇に抱えられた見慣れない角度の視界の端、襟足だけ長く伸びた髪と丈の長いカーディガンがさらりと揺れる。

「待ってってば!行くわよ!行けばいいんでしょ!?ほら、ファーも!」
「待ってましたァ!そう来なくっちゃねー。ってなわけで永山サン、ちょっと借りていきますんで!!」
『ああ、行ってらっしゃい』
「ちょっとは止めてくださいよ隊長!!」


───そんなこんなで、半ば強引に連れ込まれた甘味処。
向かい合わせに座る天野は、いかにも不本意という色を隠しもしない仏頂面で頬杖をついている。暖房の効いた店内でもなおもこもこと着膨れたままの姿も、そろそろ見慣れたものだ。隣のファーレンハイトも似たり寄ったりの着こみようである。
窓際、四人掛けのテーブル席。必然隣に座ることになった葵はうきうきとメニューをめくっていた。

「さあて、何食べる?好きなの頼んでいいよ。付き合ってもらったし奢ったげよう」
「お汁粉」
「わたしも、ミヅとおなじの」

間髪入れず、二人。

「はーいはい、アッツアツにしてもらいましょうねえ。近江くんは?」
「え……っと、」

差し出されたメニューカード。《《以前ならば》》少なからず心が弾んだであろう、綺麗に盛り付けられた甘味の写真が並ぶそれ。
この|非日常《やまい》に冒されてから口にしたもののことを思う。
とっくに味の抜けきったガムを惰性で噛み続けているような違和感を、それを取り繕う虚しさを───知ってしまった、絶望するほどの美味を。
一瞬、かつてのクラスメイトの声が脳裏を掠めて息が詰まるような思いがした。

「……俺……」
「何食べても《《味気ない》》?」
「え……」

顔を上げると、少し寂しそうな笑顔。
から、と汗をかいたグラスの中で氷が音を立てる。

「……何で、」
「何となくね。あたしもそうだから」

伏せられた視線。静かな声。
天野が一瞬険のある目つきでを須磨を見遣り、鼻を鳴らして窓の外へと視線を戻した。

「……そう、なんですか」
「キミみたく何でもかんでもって訳じゃないんだけどさ。発症前に"美味しいな"って思ったものしか、味分かんないの」
「……」
「だからさ、想像しながら食べるわけ。今まで食べたもの思い出しながら、ああ、あれに似た感じかなーって」

丁寧に整えられた指先で、メニューの端を弄びながら笑う。

「そーするとさ、それってちゃんと味分かってると出来ないでしょ。ちょっとスゴい事してる気になれるんだよね。……まあ、合ってるかどうかは分かんないんだけど」

再び絡む視線。細められた目元が、柔らかく差し込む午後の日差しに淡く光る。
そこに浮かぶ懐旧。寂寞───諦観。

「飢餓云々はおいといて、食べない訳にはいかないから。──生きてる間は」

生きている間。
その一言が妙に重く感じられて、鼻の奥がつんと痛んだ。

「あたしはキミみたく、捕食に苦労することもないけど。……そこだけは、一緒でしょ。キミも、あたしも」

昼休み、購買で買った袋菓子を交換し合ったこと。放課後、喫茶店にコーヒー一杯で何時間も居座ったこと。文化祭の準備で帰宅が遅くなった夜、レストランで誰が奢るかをじゃんけんで決めた。休日のファストフードチェーン。話している間に、揚げたてだったフライドポテトはすっかり冷たくなっていた。
そのすべてが、今となっては取り戻しようのない過去だった。くだらないことでいつまでだって笑いあえた相手も、その時間も、そこにあった食べ物の味も。

「……はい」

隠しようもなく震えた声を、誰も笑わなかった。


やがて運ばれてきたものの味は、やはり茫洋として分からなかった。
ただ飲み込んだそのぬくもりと、ふわふわと浮かぶ細やかな抹茶の泡の感触と、終始押し黙ったままこちらを見る天野の、それでも少しだけ和らいだ表情や、白玉団子を咀嚼するファーレンハイトの瞳の輝きや、すっかりいつも通りの調子に戻った葵の明るい声や、そういったものを尊いと思えた自分のことを忘れずにいたいと、そう強く思った。

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